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2010年12月

武家の古都・鎌倉(中世武家社会)[Ⅱ](+9

武家政権の本拠地である鎌倉は、御家人を中止に、商人たちの庶民も集中するようになったことから、中世の代表的都市として発展した。紀行文等で推察できるが、商人の増加のために商業活動の場を限定した通達を出すなど禁令が参考になる。
鎌倉には多くの文化が流入するが、仏教の進出は著しいものがある、新仏教では臨済宗(禅宗)栄西・日蓮宗の日蓮、旧仏教では律宗の叡尊(eison)忍性らの活躍が知られる。  中国から来日し、日本仏教の発展に貢献した僧も少なくない、五代執権・北条時頼に招かれた、宋の蘭渓道隆は建長寺の開山、円覚寺の開山・無学祖元もその一人で北条時宗に招かれ、建立された。

第Ⅱ部は護良親王(moriyosi・morinaga)鎌倉配流より入る。
「建武の新政」開始以後、政権の中枢は鎌倉から京都に移ったが、武家政治復活を目指す足利尊氏は、光明天皇を擁立後でも、本拠地の選定に迷っていた。最終的に京都に幕府を置くことを決断するが、それでも鎌倉は東国支配の要地である。
鎌倉公方として、足利基氏(尊氏の子)が鎌倉に下向し、上杉憲明らが関東管領にと云う、鎌倉府の体制が確立する。

護良親王   鎌倉幕府倒幕の・元弘の変に参戦、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による、建武の新政で征夷大将軍となり上洛した。
東北地方支配を目的とした為、足利尊氏の他、父後醍醐天皇とも反目するようになる。
その後、尊氏暗殺の兵を集める等あり、征夷大将軍を解任され、足利方に捕らわれ、天皇の命により鎌倉に送られ尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれる。
東光寺土牢(現鎌倉宮)
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  翌年、北条時行(高時の子)の中先代の乱(北条高時以前の北条氏の治世を先代、足利氏を後代、北条時行を中先代と称した)で直義の命を受けた淵辺義博に殺害された。

護良親王を祭神として祭る神社が二階堂の鎌倉宮である。明治天皇の勅命により東光寺跡にたてられた、護良親王殺害の場所がここ東光寺であるためだ。
護良親王墓所・・鎌倉二階堂・理智光寺跡s-2011_0115_135113-DSC01318.jpg

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建武二年(1335)足利尊氏鎌倉を発つ、後醍醐天皇が下した新田義貞らの官軍を箱根で破る。翌年京都に入るが、官軍に敗れ九州へ敗走するが軍勢を立て直し、持明院統の光厳上皇を奉じ入京。後醍醐天皇との講和し建武式目による新しい幕府の政治方針が定められる。

鎌倉府・・・・室町幕府が鎌倉に置いた統治機構。鎌倉に義詮のあと基氏を置いて初代公方とし、関東管領・評定衆・引付衆・諸奉行を設置し関東八カ国に伊豆・甲斐を加えた10ヵ国を管轄させた。
前年来、高師直(kounomoronao)と足利直義との対立を端緒として勃発した動乱が全国的に拡大し(感応の擾乱)(kannnounojixyourann)、師直・足利尊氏・足利義詮(yosiakira)と直義との間で全面的な武力衝突を見るに至り、鎌倉でも師直派の高師冬と直義派の上杉憲顕が争った。 師冬は足利基氏を擁して対抗したが、基氏の身柄を憲顕側に奪われ敗北した。足利基氏は上杉憲顕と共に鎌倉へ戻る。(上杉憲顕・観応の擾乱で尊氏と対立し地位を追われるが尊氏の死後、基氏らにより関東管領に任ず。)観応元年・正平五年(1350)
足利基氏の要請で上杉憲顕が幕政に復帰し、関東管領として再び鎌倉公方を補佐する。以後、関東管領の職は上杉氏の家系に独占して伝えられていくことになる。憲顕の関東管領就任に反対の宇都宮氏綱らが兵を挙げるが、基氏自ら出陣してこれを破った。貞治二年・正平十八年(1363)
上杉能憲(yosinori)の弟憲春が関東管領となる。上杉氏のうち、憲顕から憲方(能憲・憲春の弟)へと続いていった家系を山内家といい、憲藤の子孫を犬懸家(inukakeke))と称す。いわゆる「上杉氏四家」とは山内・犬懸に扇谷(oogigayatu)・と宅間家とを加えたものであり、すべて各々が鎌倉に構えた邸宅の所在地に由来する家名であり、上杉氏が鎌倉を本貫地としていることがうかがえる。山ノ内上杉は憲顕に始まり、北鎌倉・円覚寺一帯に邸宅を構えた。憲顕以降は上杉氏の宗家として栄えた。山ノ内上杉氏は代々越後の守護職を世襲し越後とは関係が深く、後北条によって関東を追われた上杉憲政は越後に逃れ、守護代の長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲った。
扇ヶ谷は壽福寺のある一帯であるが、上杉重顕が館を構え扇ヶ谷上杉氏と成る。関東管領となる家柄である。享徳の乱以降の鎌倉の主は扇ヶ谷上杉氏とその家宰の大田氏であった。
犬懸上杉氏は、憲顕の兄・憲藤に始まる、居館跡の犬懸ヶ谷は釈迦堂谷の東隣りにある、孫の氏憲(禅秀)までは山内家と共に関東管領に任命される家柄で有ったが氏憲が公方の足利持氏を襲ったが、敗れて自害する。(上杉禅秀の乱)犬懸上杉氏滅んだ。
宅間上杉氏は、目立った活躍はなく、さほど振るわなかった。


伝・上杉憲方墓所  鎌倉・極楽寺坂
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明徳三年・元中九年(1392)  京都で南朝後亀山天皇より北朝後小松天皇に三種の神器が譲られ、両朝の講和が実現する。 (南北朝の合一)

足利満隆と上杉禅秀(氏憲)が足利持氏に反乱を起こす(上杉禅秀の乱)
鎌倉を奪われた持氏と上杉憲基は、駿河守護・今川範政を頼る。幕府は範政と越後守護上杉房方らを禅秀討伐の為に派遣する。 禅秀の乱は発生後三カ月余りで終結する。応永二年(1416) この戦火で鎌倉の街・寺院等は大方焼失したようだ。

足利持氏の子賢王丸(kennoumaru)が鶴岡八幡宮で元服する。上杉憲実(norizane)は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱(henki)(将軍が臣下に自分の名前の一字を与えること。)を請うように勧める。 憲実は上杉憲基の養子(実父は上杉房方)。持氏に諫言することで、両者の関係は悪化し、上野に退避した憲実を討とうとするに至って、幕府は持氏討伐を決定する。後花園天皇に治罰の綸旨と錦旗を要請する。(永享の乱)(永享10年)(1438)。
康生元年(1455)   幕府を命を受け、錦旗を掲げて足利成氏討伐の為に東下した駿河守護今川範忠が、成氏を破って鎌倉に入る。鎌倉を落ちた成氏は、下総古河に奔る(古河公方)

中世鎌倉を考える上で、長尾景虎(上杉謙信)も外せない、越後守護代・長尾為景の末子で生まれるが守護代の地位に就いた。
関東管領上杉憲政は北条氏康によって、関東を追われ、長尾景虎を頼った。景虎は養父・上杉憲政の家督を継ぎ、後北条氏攻撃の為に関東に入り、関東の武将たちによって関東管領に推戴され、足利藤氏(fujiuji)を古河公方として戴いた。後に足利義氏を承認する。
関東管領就任式を鎌倉鶴岡八幡宮にて行った、関東管領という役職が関東の雄という、魅力ある役職で有ったことに注目する。上杉謙信の関東管領就任の事からも推測されるように、都市鎌倉は鎌倉幕府滅亡以降、歴史の表舞台から消えたわけでは無い、鶴岡八幡宮での就任式を開催する必要が有ったわけである。
上杉謙信は鎌倉府体制に依拠して戦国の覇者たらんとしたと言えよう。
織田信長は室町将軍を擁立して、京に上り第二次室町幕府を志向する。 他方上杉氏・後北条氏は鎌倉府に依拠して、関東に独自の権力基盤を築き、鎌倉幕府を志向する。  徳川家康は、江戸を拠点として選び、「吾妻鑑」を愛読して鎌倉幕府を理想としたが、結局は全国政権といえる新しい幕府を創造したのである。



鎌倉庶民の生活
鎌倉と云えば武士の都というイメージだが、鎌倉幕府は建長三年(1251)には小町屋(常設の商人)と売買設(屋台)の開設出来るところを限定する法律を出している、商業地域を限定しようとしていた。  限定地域とは、大町(現在の下馬交差点辺りから大町四ツ角付近)・小町(夷堂橋から小町大路を水道路付近)・米町(長谷小路の横須賀線踏み切り付近)・亀ヶ谷辻(岩船地蔵堂付近)・和賀江(和賀江、小坪付近)・大倉辻(分かれ路から関取場付近)・気和飛坂上(化粧坂上)・魚町(大町四ツ角付近)・須地賀江(筋替橋付近)等の町屋に展開していたことがわかる。街に集まった商工業者は武士や僧侶などの必要物資を供給していた。
下馬四ッ角
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夷堂橋
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和賀江島
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化粧坂
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筋替橋
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後北条氏の盛衰
室町将軍足利義政の異母兄政知(masatomo)が、鎌倉公方として鎌倉に下向する、幕府は、天竜寺・香厳院主だった政知を還俗させたが、鎌倉に入ることなく、伊豆の堀越に留まった。(堀越公方)長禄二年(1458)
文明年間(1470年代)上杉氏内部の権力闘争の間隙を突いて、伊勢氏(後北条・小田原北条)が相模国に伸び、上杉氏に代わる。  北条氏初代・伊勢長氏(nagauji)(北条早雲)は京都伊勢氏の出身で、室町幕府中枢での活動の経歴ももっていた。
今川家の家督争いを収捨させた功績などで、今川家内での重責をなした。
堀越公方・足利政知死後の混乱に乗じて伊豆に攻め入り、政知の子・茶々丸を討って伊豆を押さえ 明応四年(1495)に上杉氏の支配する小田原を奪った。
次に永正九年(1512)扇谷上杉の三浦義同を岡崎城から追い、鎌倉に入る。ここに鎌倉の主は小田原の伊勢氏となった。 同年・伊勢長氏、鎌倉に玉縄城を築城する。玉縄城は、現在の鎌倉市城廻(siromeguri)辺りの丘陵にあった。三浦氏に対する前線基地として築いたが、三浦氏滅亡後はその規模を拡大して北条氏の防衛拠点となった。
二代北条氏綱は鎌倉の検地を行い、大道寺盛昌を鎌倉代官として鎌倉を支配、直轄領とした、盛昌は早雲以来の重臣でその後も鎌倉代官の職は大道寺家の世襲になっていた。北条氏綱は安房里見氏との戦で焼失した八幡宮の再建計画を天文元年から始め、実地調査を経て、翌二年から工事を始め天文九年に完成した。
この氏綱による再興は、大修理であった。着工前に最も破壊されいたらしい下回廊を築地に変更し、本宮全体・八脚門・神宮寺等が復興された。  そのために、神主・小別当には上野・武蔵・安房・上総・下総を広く勧進させ、配下の武将には所領役として築地の普請を課した。さらに、造営費として小田原からの公料のほか、家老にたいして寄付を命じた。工匠として・奈良興福寺四恩院からも大工を招き、鶴岡八幡宮大工・玉縄番匠・伊豆大工・奈良大工の各10人が本宮造営、建長寺大工が神宮寺等を担当した。諸職人には、遠江と三島の檜皮師、小田原の奈良塗師・銀師・江師・畳指・石切などが動員された。
鶴岡八幡宮天文再興は、北条氏支配下の伝統文化と上方文化を折衷した画期的なもであった。その過程で、普請役の賦課などを通じて支配下の家臣団の結束を確認し、勧進を通じて上野・武蔵・安房・上総・下総等の情勢の把握に成功するなど、分国統治に大きな意義をもつ。
伊勢氏綱の行った、もう一つの注目すべき事蹟として、伊勢氏から北条氏への改姓がある。この改姓の問題は、伊勢氏と云う由緒正しき名前を捨てて、北条氏という鎌倉幕府の執権職を世襲した家柄の名前を名乗ろうとするわけで、戦国大名として成長しつつあった氏綱が、自己の権力展開についてどうイメージしたかを示している。
東国の将軍古河公方を戴いて、関東管領上杉氏に代わって、相模・武蔵国を核とする東国国家を支配せんと考えていたことが読み取れる。
天正18年(1590)豊臣秀吉、小田原を攻め北条氏を滅ぼす。
秀吉は徳川家康を先鋒として北条氏討伐の兵を発し小田原を攻めた、玉縄城(鎌倉)では5代城主北条氏勝が籠城を決意するが家康の説得に応じ、無血開城した。
秀吉は小田原から奥州に向かう途中、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じた。







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