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2011年01月

やぐらとは?防空壕・物置・墓(+10

やぐらは土地不足解消に考え出されたお墓の用地
鎌倉では、やぐらは決して珍しいものではないが、全国的に見れば殆どないようだ。鎌倉にしか見られない貴重な史跡なのである。 それなのに案外粗末に扱われ、宅地造成の際に破壊されたりしたものも多いと聞く。
十三、十四世紀に流行した鎌倉地方独特の横穴式墳墓の一様式で、鎌倉の丘陵の裾や中腹によくみられる。
扇ヶ谷・海蔵寺やぐら群
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海蔵寺裏のやぐら・燃料置き場?
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海蔵寺門前・底脱ノ井(鎌倉十井)
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鎌倉海蔵寺(秋にはこの門前・萩の花埋め尽くされる)
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一般にやぐらの形は、遺骸を埋葬する為の納骨の場所、供養のための仏像や供養塔を安置する場所としての玄室と、入口から玄室に至る通路部分の羨道(senndou)の二つの部分からなっている。 平面はいずれも矩形で、天井も平天井のものが多い。  要するに普通の建物の部屋のような空間を横穴を掘って作ってあるのだ。羨道の入り口には扉をつけているし、玄室内にもにも梁を渡したと思われるものや、あたかも材木があるように彩色し、木造建築のように見せたりしている。
やぐらの前身は、藤原時代の法華三味堂(法華堂)だと言われる。法華経の功徳によって極楽浄土に往生したい為に、王朝貴族たちは墓所としての法華堂を建立したようである。  この世で権勢を得ていても、戦争や天変地異が続く暗黒時代が始まると云う末法思想による精神的な不安はどうしようももなかったのであろうか。
頼朝が、死後法華堂に葬られたことは明らかだし、政子・実朝・義時・時宗らの墓も法華堂様式だったらしい。恐らく開幕当初は、上級武士たちの墳墓は法華堂様式をとったのではあるまいか。   法華堂の流行は壁にぶつかる
鎌倉は山に囲まれた自然の要塞のような町だが、残念ながら非常に平地が狭い都市である。平地に無制限に墳墓を造れば、軍事的にも経済的にも都合が悪い。時の執権北条泰時は御府内にに墳墓は一切あってわならないと。しかし、墓所である法華堂を造れなくなった御家人達は困ったであるう。墓所を改装しなければならないが、府内に土地はない。苦肉の策が「やぐら」だった。  土地不足をなんとかやぐらという代用品で解消したところは、空地難の今日の団地ビルと似ている。  おかげで鎌倉時代の史跡として今日まで残されている。木造の法華堂や寺院建築では生きられなかった。鎌倉には廃寺も多く、現存の寺院でも建物は江戸期に再建されたものがほとんど。肝心の鎌倉時代の史跡そのものが無いのが物足りない点だったが、考えてみればやぐらと云う人間味のある史跡がいくらでも残っている。今後も貴重な史跡を残していくだろう。   
瓜ヶ谷やぐら群・・・・・葛原岡(kuzuharaoka)神社の北側の谷にある5穴からなる鎌倉時代のやぐら群で、内部に地蔵菩薩像があり「地蔵やぐら」ともいわれる。市指定の史跡となっている。s-2010_1016_104815-DSC01056.jpg
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腹切りやぐら・・・・・宝戒寺後方の屏風山と小冨士山に囲まれた葛西ヶ谷(kasaigayatu)の奥、東勝寺跡内にあるやぐら。自刃した北条高時はじめ、北条一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬地は釈迦堂ヶ谷奥やぐら群と推定されている。この腹切りやぐらを含む葛西ヶ谷の東勝寺跡は国指定史跡。
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唐糸やぐら(karaitoyagura)・日月やぐら(jitugetuyagura)
名越から浄明寺に抜ける釈迦堂切通の上に釈迦堂谷(sixyakadougayatu)奥やぐら群がある。
頼朝の暗殺に失敗した唐糸が幽閉されたやぐらが唐糸やぐら・・・やぐら内部の壁面、納骨堂の丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪の形になぞらえて呼ばれるようになった。s-2011_0206_135335-DSC01403.jpg
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尚現在このやぐら群は、私有地にある為非公開です。
釈迦堂切通(名越~浄明寺)
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大江広元の墓(墓としてのやぐら)
西御門にある頼朝の墓の東側、山の中腹にある。墓は三つあり中央が広元の墓。
頼朝の招きで鎌倉に下向、公文所や政所の別当を務め、守護・地頭の設置を献策するなど頼朝の右腕となる。頼朝の死後も北条氏を支えた。s-2011_0213_125524-DSC01421.jpg
毛利季光(tosomitu)の墓(左)
大江広元の子で毛利氏の祖と言われる。
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島津忠久の墓(右)
頼朝の子で島津氏の祖と言われている。
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頼朝の墓を訪れる人は多いが広元の墓を訪ねる人は少ない、30メートル位の近さなのだが。(階段の先)
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