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2011年04月

長興山妙本寺(+4

日蓮宗の霊跡本山。  「比企の乱」で知られる比企一族の邸宅跡である。開基も比企能員(hikiyosikazu)の末子、能本(yosimoto)と伝えられる。山号の長興は能本の父能員の法号。寺号の妙本は母の法号。  開山は日蓮上人。
妙本寺祖師堂s-2011_0406_113521-DSC01547.jpg
開山日蓮上人像と桜
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日蓮が身延に隠遁すると、直弟子の日朗はここを拠点に布教を行い、やがて日朗門下の拠点として発展した
日蓮宗の格式高い寺として、代々の住職は東京池上本門寺の住持を兼務していた。
日蓮ゆかりの鎌倉には、数多くの日蓮宗の寺院があるが妙本寺は少し趣をを異にする。  老杉の茂る参道を行くと谷戸の奥に五間四面の入母屋造の本堂がある。その堂々とした佇まいは、この場所で一夜にして滅ぼされた比企一族の血涙を思い、一層の寂しさが募るようである。
北条氏が、将軍頼家を見捨て、頼家の外戚として強大なライバルに成長してきた比企能員を謀殺し、一族を滅ぼしたのは、建仁三年(1203)比企の乱である。
比企一族の墓所(供養塔)
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頼家の子一幡(袖塚)
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後継者問題で北条時政・政子は地頭職を頼家の子・一幡(itihata)と北条氏が預っている頼家の弟千幡(実朝)二人に二分してしまった。
その後北条氏は元久二年(1205)に畠山重忠・重保の親子をを平賀朝雅の讒言により滅ぼす。次に建保元年北条氏は義時の時代三浦一族の和田義盛を討つ(和田合戦)< 貴種・源頼朝を担ぎ旗を挙げた関東の武士達は鎌倉幕府を築き、頼朝の御家人としての主従関係を認めてゆく中で旗揚げ以来の北条氏・・政子の存在が大きいと思われる。数々の陰謀・策術により、有力御家人を陥れ、第三代執権北条泰時の時代にはほぼ安定したようだ。(北条泰時は名執権と云われた)
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