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2011年05月

霜月騒動とは?

鎌倉後期の幕府政治史も数次にわたる紛争と内乱が起きているが、もっとも重要な事件が、弘安八年(1285)十一月の霜月騒動(simotuki・soudou)であることは、異論のないところであろう。二度のモンゴル襲来を退けた幕府の前・執権北条時宗の舅、当時の執権貞時の外祖父にあたり、幕府政界の最有力者として時めく安達泰盛以下の有力御家人五百余人が、北条貞時の命により討伐されたのがこの事件である。  十一月に起ったところから霜月騒動と呼ばれている。
泰盛らを滅ぼした勢力は、当時、得宗と云われた北条氏嫡流家に仕え、本来は御家人より一段低い身分と目されてきた御内人(miutibito)のグループであり、その代表者が時宗・貞時二代にわたって得宗家の家宰をつとめた平頼綱であった。
この合戦以後、幕府政治はかつての御家人武士の代表者多数を加えての合議制を特色とする執権政治の段階に終止符を打ち、北条氏嫡流たる得宗が御内人を任用しつつ行う得宗専制政治の段階に移行したと考えられる。
騒動についてもう少し考えてみる、泰盛の政治的立場を御家人の代表、執権政治の護持派とみることは誤りでは無いと思う。   前執権時頼の死から霜月騒動にいたるまでの一年半、彼が幕府政治に大きな発言権を持っていたと考えられる時期の幕府の政策を細かく検討する必要があるだろう。
新たに制定された「新御式目」のなかに、将軍家への節度正しいあり方の要求と御家人の保護政策、さらに公正な態度の表現をみとめられ、それこそ泰盛その人の政策の反映であると判断され、泰盛の政治的立場がさらに明らかになることを期待したい。
事件の直接の原因は、泰盛の子宗景が曾祖父安達景盛は頼朝の子であると称したところ、平頼綱によって安達氏が謀反を企んでいると讒言された為だと記されている。だが直接の原因は何であってもよい。すでに泰盛ら御家人派と頼綱ら御内人派の対立は決定的になっていた。何等かのきっかけをとらえた頼綱は貞時をいただいてにわかに泰盛らを総攻撃するクーデターを敢行したのであろう。
泰盛派の構成については約50名をこえる自殺者の名簿が残されており、泰盛派として滅亡した武士たちの構成を知ることが出来る。 まず安達氏一門についていえば、城入道泰盛をはじめとして、その嫡子秋田城介宗景、泰盛の弟前美濃入道長景、等々 次に泰盛の母の実家である甲斐源氏小笠原氏の一族。又三浦芦名氏の頼連も宝治合戦後三浦氏の家名を伝えた。三浦頼連は建治年間に北条時輔のあとをうけて伯耆国の守護人に任命された、当時の有力者である。 その他守護人ではないが、政所執事二階堂氏の一族で引付衆の二階堂行景、大江広元の子孫泰弘、というように、いずれも御家人武士として名のある一族が網羅されていることに注目する。
自害したり、討たれた者は「五百人」にのぼる、これをもっても泰盛派の勢力の大きさをうかがい知ることとが出来る。曾祖父盛長以来安達氏が守護の地位を世襲してきた上野国において、多数が泰盛方であっても当然であるが、しかし関東の中心である武蔵国は、かつて安達氏が守護であったことがない国であり、この国の御家人多数が泰盛派に与したことは、彼の政治的基盤がどこにあったかを明示するものではないだろうか?。
さらに、これ以外に、泰盛派として事件に連座し、あるいは失脚し、あるいは流罪にされたりした人物が何人もある。  北条氏一門で金沢文庫の主人だった北条(金沢)顕時は、娘婿にあたるため、拘禁されて下総国に流されたし、大江広元の子孫で当時、引付衆の要職にあった長井時秀・宗秀父子も、下野国の豪族で評定衆だった宇都宮景綱も、ともに縁者として失脚してしまった。
さらに事件は鎌倉にとどまらず、諸国に拡大してしまった。各地で泰盛派が討たれ失脚していく。ここではくわしく触れない。
霜月騒動そのものに関する資料が乏しく、少ないのは如何ともしがたいが、敗者である泰盛派の人々のえがきだした鎌倉幕府史こそが、実は現在我々が接する史書「吾妻鑑」そのものではないか、と考えるからであり、「吾妻鑑」なきあとの幕府政治史の一端を垣間見せる一等資料「金沢文庫古文書」もまた
,ひろくいえばその系統に連なる文書群と考えられる。金沢文庫の主人北条顕時が泰盛の娘婿として流罪にされた後、、数年後に御内人のリーダー平頼綱以下は成長した貞時にって討伐された。やがて顕時はじめ長井宗秀・宇都宮景綱らはいずれも政界の中枢に復帰している。しかしそれは泰盛の指向した政治とは異なり、得宗貞時による専制政治への復帰にすぎなかった。
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