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2011年06月

新田義貞・鎌倉攻め

足利尊氏とライバル関係にあって、尊氏との対立・抗争をを通じて、尊氏の性格をはっきりさせ、結果的に尊氏を引き立てる役目を果たしたのが新田義貞である。
尊氏・義貞は同じ源氏の一門で、前九年の役・後三年の役で活躍した八幡太郎義家の子義国(yosikuni)の子孫である。
鎌倉時代の根拠地・下野国足利庄・上野国新田庄を共に領地経営していた。
新田義重は八幡太郎義家の孫、鎌倉御家人となって将軍との間に主従の関係を取り結んだが、将軍家や北条執権家との折り合いが悪く、優遇されなかった。足利氏と比較すれば歴然としている、足利氏の嫡流では、義兼が上総介であるのに対して、新田の嫡流では、単に新田太郎と称され本拠の新田庄が属する上野国の守護職が北条得宗家に握られたこととも、新田氏の反北条意識を増幅したと考えられる
さて新田義貞だが朝氏の嫡子・正安三年・生年とすると尊氏より四歳年上となる。・・・・新田小太郎と称し、源氏嫡流の名家の出だが、北条氏の威の下に服し、幕府の命に従って、河内金剛山攻撃に加わっている。
義貞は当時、無位無官。尊氏がすでに従五位上・前治部大輔、対照的である。・・・・・やがて楠木正成攻撃の軍陣から離脱し、大塔宮護良親王から密かに倒幕の令旨を受け、本国に引き揚げ、一族を集め討幕へと立ち上がる。
太平記等によれば、義貞が幕府派遣の徴税使を誅殺したため、所領の新田庄平塚郷を没収された、これを機に挙兵を決意し、上総国守護代長崎左衛門尉(得宗被官)を討ち、鎌倉に進軍する、勝戦を重ねて、味方を増やしながら鎌倉を目前にした。
鎌倉の町に通ずる道(切通し)の入り口で、両軍は激しく渡り合い交戦し、・・・義貞は、極楽寺切通、巨袋坂(kobukurozaka)化粧坂(kewaizaka)、の三方より、攻めることにした。  幕府軍との交戦は(元弘三年五月十八日・午前十時ごろ)始まり、幕府軍もよく防戦したが、極楽寺切通しが破られ、稲村ケ崎の伝説にもある通り、干潟を通って新田軍が鎌倉市中になだれ込んでからは、勝敗は明らかだ。   北条高時以下一門、東勝寺にて自刃するにいたった。その数八百余名、150年続いた鎌倉幕府の壮絶な最期であった。
稲村ケ崎古戦場石塔
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新田義貞は鎌倉攻めの功労者であったが、なぜか、まもなく足利氏により鎌倉を追い出されて、京都に移ってしまう。鎌倉攻めに尊氏が主力ということもあろうが、鎌倉に対する足利勢力の執着の強さを思い知らされる。
建武新政下の新田義貞・・・新政権は新田一族にもあつい恩賞を与えた。「太平記」によれば新田義貞に上野・播磨両国、子息義顕に越後国、弟義助に駿河国と論功行賞された。
また新政下で従四位下、上野介・播磨守に加え越後の守護職を兼ね、義貞の本官は・治部大輔→右衛門佐→右衛門督→佐中将の順で昇ったと記される。
因みに尊氏は参議に昇った。しかし新田氏が果たした役割で注目すべきは、武者所など重要な軍事機構の中核を一門で占めたことである。武者所は朝廷の警備隊、公的で強力な後醍醐の親衛隊と考えられるからだ。新田義貞と後醍醐との緊密な関係はこのことから理解できる。
梅松論」によると建武元年に「兵部卿・親王護良、新田佐金吾義貞、正成(楠木)、長年(名和)」がひそかに後醍醐の命を受けて、足利尊氏討伐を決行して失敗した様子が記されている。
競争意識の強かった両者が武門同士の争いを続ける中、尊氏は中先代の乱鎮定の為、鎌倉に下向したが、乱平定後も帰京せず、鎌倉に本拠を置く様子。後醍醐の近くに仕える義貞と本格的な争いを始める。後醍醐は結局、義貞につき尊氏は、朝敵になってしまう。後醍醐天皇の判断は正しかったのか、もし尊氏についたならば、その後の歴史はかなり違う方向へ展開したかもしれない。
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