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2011年07月

後北条氏の盛衰(鎌倉)

戦乱の中で足利成氏は下総古河に本拠を移す(古河公方)。幕府は成氏に変わる鎌倉公方として、将軍義政の異母兄政知(masatomo)を鎌倉に下向させるが、鎌倉入りを果たせず伊豆国・堀越(horigoe)にとどまった。(堀越公方)
諸勢力が錯綜する鎌倉を最終的に制圧したのは、北条早雲(souun)(伊勢長氏・ise・nagauji)であった。・・・伊豆の堀越公方・茶々丸を滅ぼすと、小田原城を拠点としてその勢力の拡大を図った。
明応七年(1498)北条早雲が、小田原を拠点としたころ鎌倉・高徳院の大仏殿が地震による津波の為に倒壊している。それ以後、大仏は露座になったと言われる。又二百人を超える溺死者を出したと記されている。別の記録では、地震は明応四年の出来事だと記されている。
露座の大仏(鎌倉・高徳院)
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去る三月に東北地方を未曾有の大地震が襲った(2011・3・11)。その後に襲った津波によって、多数の方が亡くなり行方不明の方がいまだに大勢いらっしゃる現実の中で、このようなリポートをすることは誠に不謹慎でありますが、ご理解いただきますよう、お願いします。
同時期に相模西部まで勢力を伸ばしてきた、三浦氏と衝突する事になる、扇谷上杉朝良側の勢力・三浦義同(yosiatu)を追撃するため、鎌倉に入る。
扇谷・上杉と山ノ内・上杉との内紛に乗じて関東に勢力を伸ばそうとする長氏は、朝良側の一大勢力であった三浦義同勢を根拠地・岡崎城に攻めた。
永正九年(1512)伊勢長氏、鎌倉に玉縄城(tamanawajixyou)を築城する。三浦氏に対する前線基地として築いたが、三浦氏滅亡後はその規模を拡大して北条氏の防衛拠点となった。・・・・・玉縄城は、鎌倉・大船に位置し、関東の抑えとして重要な位置を占めた。
玉縄城址・石塔・・・・表門に通ずる七曲坂
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永正十七年(1520)北条氏綱(houjixyou・ujituna)、(長氏・嫡子)は、小田原・北条氏の名跡を継承したこの時期に伊勢長氏から北条早雲に転身したとみられる。
同時期に氏綱の鎌倉小代官(鎌倉検断)として後藤繁能の名が(報国寺文書)に見られる、初出の役職なので記録する。・・・北条氏の命令は代官から小代官に伝えられて施行されていた。
大永六年(1526)安房の里見氏が鎌倉に来襲し、八幡宮付近での戦闘となり、八幡宮以下の諸堂社が焼失してしまった。・・・誠に残念な結果です。  しかし後北条氏の氏綱は、鎌倉代官・大道寺盛昌(daidouji・morimasa)・笠原信為(nobutame)に鶴岡八幡宮再建の調査を命じた。
後北条氏は相模国全域を制圧し、氏綱・氏康と代々順調に領国経営を関東一円に伸張するのだが、氏政・氏直の代に至って豊臣秀吉に敗れることになる。
こうして中世後期、さまざまな戦乱に遭遇する中で、鎌倉は次第に武家の都としての機能を失っていった。しかし、政権掌握を目指す武将たちにとって、いまだ武家政権のシンボルである鎌倉は特別な意味をもっていたのである。   鎌倉を掌握した代々の武将は、武家政権の紐帯である鶴岡八幡宮を崇敬した。
一の鳥居より八幡宮を望む
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北条早雲から鎌倉支配を継承した氏綱は、まず鶴岡八幡宮造営に本格的に着手した。    山内上杉家を継承した越後の戦国大名・上杉謙信(景虎)は、すでに上杉憲政の養子として関東管領に任ずることが決定していたにもかかわらず、八幡宮神前での拝礼式にこだわり、鎌倉に滞在して式に臨んでいる。
最終的に関東を制圧した秀吉は、鎌倉入りをはたすと、早速・鶴岡八幡宮の修理を命じ、指図(sasizu)を作成させている。その造営に当たったのは、江戸幕府を開く徳川家康である。
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