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2011年08月

臨済五山に継いでふれておきたい寺院(Ⅰ)

鎌倉には八十余りの寺院とその寺院に属する塔頭が約三十院ある、その中でも鎌倉五山に継ぐ主な寺院をリポートしておきたい。

鎌倉大仏(高徳院)(2011・1)・極楽寺(2011・3)・金沢称名寺(2011・3)の3ヵ寺に付いては、(確当月)でリポートしてありますので参照してください、検索が大変だと思いますがよろしくお願いします。

瑞泉寺は鎌倉では奥まった二階堂にある、創建は嘉暦二年(1327)に二階堂貞藤(nikaidou・sadafuji)が建てた寺(瑞泉院)に始まる。 夢窓疎石(musou・soseki)が初代の住持であった。 翌年には、観音殿・偏界一覧亭(henkai・itirantei)が建設され、庭も整備された、しばしば詩会が開かれている。偏界一覧亭からは富士山を眺めることが出来た。
現在の偏界一覧亭(鎌倉・二階堂)
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左手・中央あたりに僅かに石塔が確認出来る。

夢窓国師・禅道場石塔(瑞泉寺)
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疎石以後は、疎石門下の寺として栄える。・・・・
開基の二階堂貞藤は、鎌倉幕府の政所執事を勤める等、実務派官僚として幕府の重要人物であったが、幕府と運命を共にしなかった。・・建武新政にさいしては、裁判を扱う雑訴決断所衆(zatusiyo・ketudannsiyosixyuu)に任用されている。

足利幕府の初代鎌倉公方、足利基氏は瑞泉寺に葬られた、以来瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺となったのである。  後に将軍足利義満の意を受けた公方氏満によって十刹位(jixtusatui)(五山位に継)に列せられた。

現在では、花の寺として知られ、年間を通じて多くの観光客で賑わっている。
庭のスイセンが咲き始めると、鎌倉に春が訪れる。仏殿前の黄梅・白梅の花も素晴らしい。そして仏殿背後の枯山水の庭も見てほしい、一見荒れ果てた庭に見えるが、この姿が夢窓国師の造った本来の庭の姿らしい。

山門も最近修復され新しくなっている。参道は駐車場になったりしているが、階段があるあたりから瑞泉寺らしい佇まいを感じ取れる。(特に、少し季節をずらすと)。


明月院は、禅興寺(zenkouji)という大寺院の塔頭であった。・・・北条時宗の開基、蘭渓道隆(rankei・douriu)の開山といわれている。建長寺開山の道隆、円覚寺開基の時宗が、建長、円覚両寺の中間地点に寺を開いている。

時宗の父・北条時頼がこの地に隠棲していた精舎を、最明寺(saimiyouji)と称し、出家の準備の為に建立されたとある(吾妻鑑)、寺といっても、時頼の隠居所を兼ねた持仏堂的なものであったようだ。

時頼の死後、西明寺を息子・時宗や、道隆が寺院の形にしたのが禅興寺である。・・規模はかなり大きく、常に関東十刹(五山位に継ぐ)の上位を占めていた。

一つ残った塔頭・明月院は、山内上杉の祖、上杉憲方(uesugi・norikata)によって中興された、上杉氏の保護により塔頭とはいえ、独立した寺院並みの寺容を誇った。

この寺がアジサイ寺と呼ばれるようになったのはまだ新しい。戦後に植えたアジサイがふえて、今日のようになったと聞く、最明寺入道も驚き、又喜んでいるであろうと、想像するのも楽しい。


坂東三十三観音札所の第一番札所として知られる杉本寺は、頼朝が鎌倉入府以前からあった古刹である。

名僧行基が大倉山の霊木を刻んだ十一面観音を祀ったのが始まりだそうだ。・・・行基さんは全国で寺を開いた伝説的人物。 史実は不明だが、相当古くからの寺であることは間違いなさそうだ。 今でも観音霊場として信仰を集めており、杉木立の中の山門・本堂にびっしり張られた千社札や、石段にはためく旗からは、庶民的な雰囲気を感じる。

しかし、昔はこのような平和な風景ばかりではなかった。 寺のすぐ背後の山には山城があり、金沢街道の要所として守りを固めていたのである。 緊急時の拠点となりうる場所に寺院を配する事は、この時代の戦略である。

本尊は十一面観音、これが現在三体安置されている。根本本尊と思われるのは、行基作と伝えられるもの。 伝行基作の像は素朴さの中に求道の思いがにじみ出ているそうだ。二体目の十一面観音は、杉本寺中興開山の慈覚大師の作といわれる、等身大の二体より、小ぶりな像は、花山天皇の勅命で造られた、鎌倉後期の像。  十一面観音像はもう一体あり、頼朝が寄進したもので運慶作と伝えられていろ。

幕府を開いた頼朝は、すぐにこの杉本寺を参拝し、修理料や寺領を寄進したといわれ、その後も政子らと度々おとずれている、実朝が参拝した記録もあんる。  頼朝らが参拝したのは、藤原時代の作と思われる二体の観音であろう。 期待と不安の入り混じった心境の開府当初の頼朝が、この十一面観音の慈顔を拝してどの様に感じたのだろうか。?

伝行基の像は、覆面観音・下馬観音ともいわれ、金沢街道の門前を馬で通ると必ず落馬するので、観音に覆面をしたら落馬しなくなったとか。また、この観音は観音堂が火災になった際に、周囲のものが気づいた時には一人で外に出て、杉の根元に立っていたと云う。杉本寺の名はこの説話に由来する。

杉本城の基礎を築いたのは、三浦半島に勢力をもっていた三浦一族の総師・三浦大介の長男、杉本太郎義宗といわれる。 頼朝入府以前の平安末期のことだ。三浦氏は三浦半島の付け根に当たるこの地に衣笠城(kinugasajiyou)の支城を築き、守りを固めたのであろう。背後には山、前を流れる滑川(namerikawa)を堀に見立てた狭隘な地形は要塞の地にふさわしい。

山城といっても、鎌倉時代の事で砦のようなものに過ぎなかったようだが。  その杉本城の遺構は、開発が進み殆どわからない。


鎌倉宮前を、薬師堂ヶ谷(yakusidougayatu)にのびている道をいくと、真言宗・泉涌寺派(singonsiyuu・senniyuujiha)の覚園寺(kakuonji)である。  観光客が押し掛け、賑やかな最近の鎌倉だが、この寺だけはいつ訪ねても変わらない。・・・・・季節にもよるが午前十時頃から、集まった参拝客を案内している(一時間一回)。境内は撮影禁止である。
覚園寺・本堂
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創建は建保六年(1218)北条義時が薬師如来を建立したのにはじまるが、現在の薬師堂は、足利尊氏が再建したものを、江戸時代に材料をそのまま使って修復した建物のようだ。・・最近茅葺の屋根もふき替えられ美しい佇まいを保っている。  暗い堂内に入ると正面に薬師如来・左右に月光・日光菩薩が迎えてくれる。
印象に残る薬師如来の眼差しは、厳しく威厳を感じた。  慈悲深さの中に、何か見透かされ、何もかも承知しておるぞ・・というような御顔なのである。

薬師堂は土間造り、天井には狩野典信の白龍の図、尊氏の梁牌銘(riyouhaimei)。取り囲む十二神将、自然光だけの堂内は、鎌倉時代にタイムスリップしたような気分になった。

しかし、案内人のお話では建物の材は当時の物が残っているようだが、仏像は、薬師如来が鎌倉末期から南北朝時代、月光・日光・十二神将らはもっと新しく室町であろうと説明された。

明治のころは、逆賊・足利尊氏ゆかりの寺として冷遇された時代もあったそうだ。  討幕を試み、尊氏に捕えられた護良親王(morinagasinnnou)を祀る鎌倉宮が、明治天皇によって創建されたが、皮肉にも覚園寺のすぐ近くなのだ。

覚園寺では毎年八月十日午前零時から「黒地蔵縁日」が行われる、深夜にも関わらず大勢の参拝者がある。鎌倉の夏の宗教行事となっている。


長谷寺は鎌倉ではよくわからない寺院である、大仏と並んで知名度があり、本尊の長谷観音は古くから庶民の信仰を集めてきた。今日も大変に賑わっている、縁起を見ても開設は大変古い。・・・・・よく解らないのは鎌倉時代の歴史が欠落しているのである。鎌倉時代・歴史書「吾妻鑑」にほとんど記述が見られないのは、どうしたことだろう。  門前町を形成している由比ヶ浜大通りは、当時は都と東国を結ぶ東海道、場所も悪くない。
長谷寺・山門
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奈良・長谷寺の観音像からは鎌倉の長谷寺の創建時を証すものはない。しかし、鎌倉時代には確かに存在していた。現存する梵鐘に銘文が残されている。すくなくも文永元年(1264)には長谷寺は存在していたわけだ。
音ンど
「吾妻鑑」に記述がないのは、記述しておくような事件が無かったと云うことだろう。   全般的に見てスケールの大きな寺院であった事が、想像されるが、鎌倉時代の歴史の光が殆ど当たらなかった長谷寺の過去は、一つの謎である。


日蓮宗・霊跡本山。「比企の乱」で知られる比企一族の邸宅跡で、開基も比企能員(hiki・yosikazu)の末子、能本(yosimoto)と伝わる。日蓮上人に帰依した能本が邸宅を喜捨、妙本寺が創建された。   鎌倉・大町にあり、武士の邸宅から商人の街に抜ける境の、比企谷と言われた所。
妙本寺・方丈
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北条氏が、将軍・頼家を見捨て、頼家の外戚として強大なライバルに成長してきた比企能員(hiki・yosikazu)を謀殺し、一族を滅ぼしたのは、建仁三年(1203)、比企の乱とよばれた。・・・・・北条時政を中心とした北条氏は、頼家に対する御家人の不信感を背景に、陰謀を成功させ、次第に権力を拡大したのである。

日蓮ゆかりの鎌倉には、数多くの日蓮宗の寺があって、禅寺などと比べると開放的な明るさを感じるが、妙本寺は少し趣を異にする。大杉の茂る参道を進むと、谷戸の最奥に入母屋造りの本堂、その又奥に祖師堂と並ぶ、木々の葉の色が変わる頃のこの寺で一夜にして滅んだ比企氏の血涙を思い、いっそうの寂しさを感じる。・・・最近・二天門の修復が完成したそうだ。

寺号の妙本母の法号。日蓮上人が身延に隠遁すると、直弟子の日朗(nitirou)はここを拠点に布教を行う。

祖師堂
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日蓮宗の格式高い寺として、代々の住職は最近まで池上本門寺の住持を兼務していた。   境内には能員の娘で幕府二代将軍・源頼家に嫁した若狭の局を祀る蛇苦止堂(jiyakusidou)、一族の供養塔などがある。
比企一族・供養塔
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杉林に囲まれた広い境内は、サクラやカイドウが美しい、夏の頃、訪れる観光客もまばらで、静かだ、蝉の声が聞こえる静寂もいい。
サクラの日蓮上人
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