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2011年09月

特権的支配層の家々(文士系)(鎌倉期)

評定衆・引付衆には北条氏と共に文士・武士の家から就任者があった。しかし幕府の内部抗争により滅亡・没落した家があり、六波羅探題職員に転じた家があり、奉行人に落ちた家があり、一・二代で就任者を出さなくなった家もあった。その一方で、新たに取り立てられる家もあった。

結局、北条・長井・摂津・二階堂・三善・清原・安達(大曾禰氏)・佐々木・宇都宮・後藤のわずか十氏族の出身者が世襲的に評定衆・引付衆就任者を出す家格となった。また、得宗家公文所においては長崎・諏訪・尾藤・工藤・安藤などの諸氏が上級職員を世襲的に輩出した。彼等が鎌倉幕府の「特権的支配層」である。

「特権的支配層」の武士に関しては、これまでに様々な形でリポートしてきたので、今回の視点としては、非北条氏系でしかも武士ではなく文士に注目していきたい。

文士は文筆能力によって源頼朝に仕えた、王朝の下級官僚出身者とその子孫を中心とする人々であり、御家人ではあるが、元々武士ではない。   武士系の御家人は頼朝に仕えた者とその子孫に限定されたが、文士はこの点でも異なり、泰時政権期まで幕府に参入するものがあった。

幕府では、同じ御家人ではあっても武士と文士は区別されていたが、実態としては文士は時代がさがるに従い武士化し、朗従を従え軍事行動をも行うようになり、やがて史僚系の武士となる。

長井氏は源頼朝の側近で初代政所別当として著名な大江広元の子孫である広元流・大江氏の嫡流である。広元は、王朝の下級官人である明経道(miyougiyoudou)・中原氏の庶流・貞親流(sadatikariyuu)の出身であるが、異母兄・中原親能(nakahara・tikayosi)が頼朝の伊豆流人時代からの知音であったことから、兄と共に合戦期に頼朝に仕えている。後に母方の大江姓に改めた。

広元の子孫からは、長井氏の他に毛利・上田・那波・水谷、等の家が分立し幕府要職就任者を出したが、いずれも幕府中枢から外れている、毛利氏に関しては合戦で生き残った子孫が安芸に土着し、子孫(李光・suemitu)が戦国大名毛利氏と思われる。

大江広元・毛利李光墓所(大蔵)
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s-2011_0213_125658-DSC01422.jpg右うを

長井氏は広元の次男時広を家祖とし、時広の長男泰秀の系統が鎌倉評定衆を、次男泰重の系統が六波羅評定衆を世襲する事になり、関東評定衆家・六波羅評定衆家と呼ばれる、長井関東評定衆家は寄合衆に列しており、寄合衆家に位置付けられる。

摂津氏の家祖中原師員(nakahara・morokazu)は、大江広元の同族である。  広元とその兄親能(tikayosi)は、明経道・中原氏貞親流の広季(hirosue)を父とするが、後に頼朝の推挙を受けて広元は大江、親能は藤原と母方の氏に改めた。師員(morokazu)の鎌倉下向は、北条泰時政権初期であり、鎌倉幕府との関係は清原氏と共に最も遅い一族である。しかし初代評定衆筆頭となり、特権的支配層の中枢に位置している。(大江氏・藤原氏と同族の関係からか?・・・よく判らない)

摂津の苗字は師員が任官した摂津守から出ている。師員以来、評定衆を世襲し、将軍の側近である御所奉行にも世襲的に就任しており、家格・寄合衆家である。

二階堂氏の始祖藤原行政は藤原南家の出身、母は熱田社大宮司・藤原季範(suenori)の妹。源頼朝の母は、季範の娘である。この血縁関係によって源平合戦期に鎌倉に招かれ、頼朝側近の一人となった。永福寺(通称、二階堂)の近隣に行政が邸を構えたことから、二階堂を苗字としたようだ。

二階堂氏は北条氏と同様に、寄合衆家・評定衆家・引付衆?という家格を、氏族内部に成立させた。

三善氏は大江広元と並ぶ頼朝の側近で、初代問注所(montiyuujiyo)執事となった・三善康信(miyosi・yasunobu)(始祖)、頼朝の乳母の妹の子で、流人時代の頼朝に都の情勢を逐一報告した人物である。  (比企氏の一族か?)

嫡流家は宮騒動で失脚したが、庶流の大田氏が問注所執事を鎌倉滅亡まで世襲し、大田氏と矢野氏が寄合衆家として幕府中枢に存続した。

清原氏は、特権的支配層の中では摂津氏と並んで幕府との関わりが遅く、庶流出身の教隆(noritaka)が泰時政権期に仕え、時頼政権期に引付衆に列した。しかし在職まもなく職を辞し、京都で没した。だが、子孫は高時政権に仕えていることが確認されている、評定衆の家格であった。
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