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2011年11月

「蒙古・襲来絵詞」・竹崎季長

文永・弘安の役とも呼ばれる、二度のモンゴル襲来は、日本史上の大事件であったが、「蒙古襲来絵詞」は、第一級の資料と言われる。教科書をはじめ、モンゴル襲来を扱う歴史書で、必ずこの絵巻を取り上げる。   その内容は博多湾防衛戦に参加した肥後国の武士・竹崎季長のたてた武功を中心に描かれ、詞書(kotobagaki)もまた季長を主格とし、その立場からの文章となっている。

文永十一年(1274)対馬・壱岐を攻略したモンゴル軍は、ついに博多湾内に侵入し上陸を始めた。迎え撃つ日本軍は鎌倉幕府の九州出先機関である鎮西奉行・武藤(小弐)・大友両氏の指揮下に編成された九州各地の地頭御家人、すなわち幕府支配下の武士達である。  詞書の主人公・竹崎季長もその一人だった。(二十九歳)

モンゴル軍の上陸の報を聞き、迎え撃つ態勢をとり、季長は戦場で互いに「見継ぐ」ために、かねてより約束のあった江田又太郎秀家と兜を交換した。「見継ぐ」とは、戦闘終了後、武功を申告して恩賞を請求する際、互いに証人に立ったり、戦闘の時助け合うことで、目印の為に兜を交換し相手の兜をかぶったのだ。

その日の大将・武藤景資(鎮西奉行の弟)の指令は迎撃であったが、戦場での一番乗りにはやる季長は、前線へと志した。しかし多勢に無勢、たちまち痛手を負ってしまう、折しも肥前の武士白石通泰・百騎がモンゴル軍に討ち入ったので、危機を脱した。戦後通泰と互いに証人に立ち、軍功を記録する引付(帳面)に一番駈けとして記入される栄誉に輝いた。

文永の役で、一番駈けの功を認知された季長だが、鎮西奉行・武藤経資から幕府に上申されなければ、一番駈けの名誉も公認されず、恩賞を受けることもできないのである。  その後の書き下しの感状には、一番駈けの戦功が記載されていなかった。働きが戦功に反映されず、納得のいかない季長は、鎌倉まで行き直訴するのである。

絵詞第二の部分である鎌倉での訴訟の物語は、こうして始められる。
文永の役の翌年、建治元年(1275)季長は一族・知人の反対を押し切り、郎党二人を連れ故郷を後にした。絵巻の「奥書」(okugaki)によれば、出発前に甲佐大明神に祈願している、これによって反対をおしての鎌倉出訴の決意を固めたことは間違いないであろう。

東海道を東に下った季長は、伊豆の三島大明神、箱根権現に祈りを込めた後、鎌倉に到着した。直ちに方々の奉行を歴訪したが、なかなか取り上げる奉行がなく失望していたが、ようやく御恩奉行安達泰盛の面前で自らの主張を述べる機会をつかんだ。

季長の必死の嘆願に泰盛もその情熱にほだされたのか、将軍への取り次ぎを確約した。かくて、勲功の賞として肥後国・海東郷の地頭に任ずる旨の将軍家下文(kudasibun)を直接手渡された。さらに泰盛から「馬具付きの馬を」進呈された、破格の待遇である。一族の反対を押し切って鎌倉に出訴した季長の苦労は報いられた。

弘安四年(1281)我が国は再度モンゴル軍の来襲を受けるが、絵詞の第三の部分はこの弘安の役における季長の活躍を主題としている。  文永の攻撃に失敗した、モンゴル軍は数年に及ぶ準備の後、朝鮮半島を南下するモンゴル・高麗連合の東路軍二万五千、と中国本土から直接渡海する江南軍十万の二方向から侵攻した。

対馬・壱岐を攻略した東路軍は博多湾に侵入し、志賀島から上陸を企てる。対する日本側は前回の経験から博多湾岸に急遽築造された石塁、石築地が蜿蜒と続き、九州各国の武士は分担の部署について戦闘が始まった。季長もこの志賀島攻撃の一員に加わっていた。

志賀島を巡る攻防は、数日にわたったがモンゴル東路軍は遂に占領を諦め、江南軍と合流するため壱岐まで退いた。日本軍はこれを追撃し、季長もこの戦闘に参加している。  江南軍と合流したモンゴル軍は再び博多湾を目指して攻撃を開始した。しかし、かの有名な暴風雨が博多湾を襲い、モンゴル軍は殆ど壊滅してしまった。あとは残敵の掃討に向かい、季長も加わっている。

以上が「蒙古襲来絵詞」が伝える、鎌倉幕府・御家人、肥後国の武士・竹崎季長の物語である。
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