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2011年12月

和田合戦

比企の乱から十年後の建暦三年(1213)、鎌倉を舞台とする最初の大規模な合戦が起こった。  幕府草創以来の老臣和田義盛とその一族が、北条氏打倒を目指して挙兵した。「和田合戦」である。

比企氏の乱後、後妻牧の方の娘婿・平賀朝雅の将軍擁立問題で、父・北条時政を伊豆に引退させ、その後継者として、北条氏への権力集中を目論んでいた、北条義時は、いよいよ標的を和田氏に絞り、これを挑発した。

三浦半島を本拠とする有力豪族三浦一族の長老的存在で、侍所別当として御家人統制にあたり、頼朝死後における宿老会議の一員でもあった義盛が、北条氏への対抗意識を示したのは承元三年(1209)から二年以上にもわたる上総国司・所望事件である。 義盛は日頃住んでいた伊北荘(上総介広常の故地)のある、上総・国司に推挙してほしい旨、内内に実朝に申請していた。

問題は、侍の国司任官の禁止は頼朝以来の方針と称しながらも、時政とその子義時・時房兄弟が、それぞれ遠江守・相模守・武蔵守に任官している北条氏と肩を並べることは、義盛の執着であろうか。

申請から二年、義盛は申請を断念し、申請書の返却を幕府に求めた、これに対して幕府の対応は、将軍の計らいを蔑にするものだと云うのである。 二年待たせての、この対応である。義時および取り次ぎ役の大江広元ら幕府側の強固な任官阻止の意志が感じられる。  実際、挙兵に際し、幕府・義時邸に続いて広元邸も襲撃対象だった。

義盛の館に軍兵が集結しているとの通報が、大江広元にもたらされた。  又、北条義時の許にも、義盛の従兄弟で本家にあたる三浦義村から義盛出軍を知らせてきた。  義村は、当初、同族として義盛に同心する由、起請文まで書いていたが、寝返ったのである。・・・・・この裏切りの影響は大きく、大勢は決してしまった。こうして義時・広元は、合戦を決定づける手を打った。 実朝の「御判」を載せた、指令書を、戦況をうかがっていた各武士団、御家人らに発したのである。すでに将軍御所を襲撃した時点で、和田氏の挙兵は幕府に対する謀反と位置づけられた。

片瀬川付近に晒された義盛以下和田方武士の首は二百三十四を数えたと云う。  乱後、義時は、従来の政所別当のほかに、義盛に代わって侍所別当も兼任する事になった。 和田氏一族の重要な没収地も、北条氏が領した。  北条氏による執権政治の確立である。(実際の執権政治は三代泰時から)私見。  江ノ電に和田塚駅がある、 塚も現存する
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