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2012年02月

「吾妻鑑」と頼朝

武家政権を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料(猪隈関白記)によれば正治元年(1199)正月に53歳で死亡したと記録されている。

死因は御家人。稲毛重成の亡妻(北条政子の妹?)の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列し、その帰りに落馬した事が原因で死亡した。(異説・糖尿病説)
源頼朝・法華堂跡・石塔(鎌倉・雪の下)
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「吾妻鑑」に頼朝の死亡記事が記載されるのは建暦二年(1212)二月条になる、何と死後13年後記事である。 建久七年(1196)正月から正冶元年正月までの三年一カ月間にわたる記事が欠落し、頼朝死去の翌月から記事がが再開している。
   鎌倉幕府における頼朝の役割から考えると、当然記載されるべき頼朝の死亡記事が「吾妻鑑」に何故欠落したのか、大きな疑問が残る。

同じ時期の京都朝廷の動きをみると建久八年(1197)後鳥羽~土御門天皇への譲位を鎌倉に通告している、幕府の意志に反しての譲位であるが、それを排して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。  このような時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)である、目的を果たすことなくの死亡である、「吾妻鑑」の欠巻時期にあたる三年、一カ月間は幕府にとっての重大な危機に直面していたわけで「吾妻鑑」の編纂者たちは、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、あるいは編纂後に何らかの理由で削除したのか、真相は謎である。

「吾妻鑑」の現存・写本の体裁から考えると、巻45(建長七年・1255年)のように一巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、 巻15(建久6年)(1195)・巻16(正治元年)(1199)と続き、1196年~1198の三年間は原本にあったものが写本の段階で脱落したものではなく、明かに原本は無かったことになる。

嫡男頼家が頼朝の名跡を相続する事になるが、 頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは、建仁二年(1202)七月になる。(吾妻鑑)   
この相続が何を意味するかは推測するしかないが、三年間・征夷大将軍に任官できなかった理由は、やはり頼朝の不慮の死と何らかの関係があると考えられるが・・・・・。

「吾妻鑑」が幕府の吏僚の手になる記録をもとに編纂されたであろう事は、古くから推測されてきた事でありますが、それがどの様な記録であったかを、大きく以下のような将軍・年代記として分類する説もあります。

>頼朝・頼家・実朝将軍記 主な出典・記録人・・・政所奉行人(二階堂行政・行光)
>頼経・頼嗣将軍記        々    ・・・恩賞奉行(後藤基綱・中原師員)
>宗尊将軍記           々    ・・・御所奉行(二階堂行方・中原師種)

以上のように頼朝の死亡に関する記事であるとか、頼家への相続に関する記事などは、(1)の将軍記に分類されます。
若宮大路・段葛石塔(鎌倉・小町)
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平成二十四年・壬辰・癸卯・庚申
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