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2012年03月

霜月騒動

弘安八年(1285)  安達泰盛と嫡子宗景が、内管領・平頼綱の攻撃をうけて滅びる。 鎌倉中は戦乱に包まれ、将軍御所も炎上する。  安達一族の他、有力御家人五百名がこの戦乱で戦死したと云う。 泰盛の女婿であった金沢顕時も、この事件に連座して上総国に配流となった。  (保暦間記)   (11月に起きた事から霜月騒動と呼ばれる)

鎌倉後期の幕府政治史上最も重要な事件は、霜月騒動であることは異論のない所でしょう。  二度の元寇襲来を退けた前執権北条時宗の舅、元執権北条貞時の外祖父にあたり、幕府政界の最有力者である安達泰盛以下の有力御家人五百余人が、 幼主貞時の命により討伐されたのがこの事件である。  泰盛らを滅ぼした勢力は、得宗家に仕えた御内人(内管領)平頼綱であった。
事件の原因については、泰盛の子、宗景が曾祖父・安達景盛が頼朝の御落胤と云う説を主張、これを平頼綱によって、安達氏に謀反ありと讒言された為だと、「保暦間記」に記されている。  真偽は判らないが、名刀・髭切丸(higekirimaru)が安達泰盛の手元に保管されていた事などから、伝えられるような事実も有り得る事と思われる。  (事実、他にも御落胤は何人もいたようだ)

直接の原因は何であるにせよ、すでに泰盛ら御家人派と頼綱ら御内人派の対立は抜き差しならず、頼綱は北条貞時を動かし、御家人派を総攻撃するクーデターを敢行した。
北条貞時建立・覚園寺(鎌倉・二階堂) 再建・大倉薬師堂が前身(北条義時)
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事件の経過は、殆ど明らかではない。 安達氏の本邸は甘縄の地におかれていたが、それ以外にも松谷に別宅の有った事が、「松谷別荘」として記録にあり。 泰盛は当時すでに家を嫡子宗景に譲っていたから、甘縄の本邸も宗景に与え、自分は松谷に隠居していたとも考えられる。 その日別宅にいた泰盛は、情勢が不穏なのを見て、午後に塔の辻の安達氏館に出向いたようだ。塔に辻とは小町大路と横大路との交わるあたり、将軍の御所や貞時の館の間近である。  情勢に対処して、まだ十四歳の貞時の身柄を抑えるつもりで現れたが、頼綱側の攻撃を受けてしまった。   (此のあたりに安達館が在ることは初出である)
松谷寺・佐助文庫跡石塔(鎌倉・佐助)  この辺りを安達泰盛・松谷別荘と推測(本宅の甘縄邸とは1㌔圏内)
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以後、戦いは主として塔の辻の館を中心に繰り広げられ、ついには将軍御所にまで火が掛かって焼失する事態となった。 勝敗は決し、泰盛側の武士の大半は討たれ、あるいは自害して滅び去ったのである。

霜月騒動そのものに関する資料の乏しさは如何ともしがたいが、「吾妻鑑」なきあとの幕府政治史を知る上で史料として「金沢文庫古文書」が挙げられ、その金沢文庫主人北条顕時が泰盛の娘婿として流罪にされた後、数年を経て、御内人のリーダー平頼綱以下は成長した貞時によって討伐された。(平禅門の乱)(実躬卿記)

かくして、顕時はじめ泰盛派の旧臣たちは、いずれも政界の中枢に復帰することになった。 しかし泰盛の目指した政治とは全く異なる、得宗貞時の専制政治下への復帰にすぎなかった。しかし、現存する関係文書群が多く泰盛派の系列に属している事実自体、泰盛の指向する方向ではあるが、手段となる政治体制は北条得宗家による専制政治への復帰が成されたと云うべきだろう。

平成二十四年壬辰・甲辰・庚寅
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