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2012年04月

玉縄城の城主(Ⅳ)

北条氏繁(ujisige)は三代玉縄城主北条綱成(houjiyou・tunasige)嫡男として天文五年(1536)に出生幼名・善九朗といい、後に三代小田原城主・北条氏康の「康」の一字をもらい康成(yasusige)を名乗る。
鎌倉・建長寺三門梶原施餓鬼会 (鎌倉・山ノ内)
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毎年七月十五日早朝、鎌倉建長寺・三門に於いて一般の施餓鬼会の後、鎌倉幕府初期の御家人・梶原景時の亡霊を弔うためにもう一度施餓鬼会を行うのがしきたりになっている。     (後北条氏とは無関係)

北条康成(yasusige)は綱成同様剛勇の将として各地を転戦、上野平井城、上杉氏攻略の時、氏康に従って16歳で出陣。 永禄元年にも父綱成と共に、常陸下野方面にも出陣。綱成の補佐役として職務を代行する。

元亀二年(1571)北条氏康が没し、翌年、綱成より家督を譲られ、氏繁と改名。官名も父と同様左衛門太夫となり、四代玉縄城主となる。氏繁の活動はこれ以降拡大し、四代小田原城主氏政を援け、岩村城を支配。佐竹氏への備えとして下総飯沼城を築城する。

氏繁は剛勇の人だが、教養人でもあり特に絵画では松の古木にとまる鷹の図が有名。  しかし、氏繁は天正六年(1578)に下総飯沼城で病に倒れ43歳で死亡した。 父綱成は63歳で健在であった。 氏繁の母と妻(七曲殿)は鎌倉・岩瀬の大長寺に葬られている。

同時期の小田原の動き、・・・上杉景虎(北条氏政の弟)、鶴岡八幡宮に戦勝・武運長久を祈願する。 景虎は、北条氏康の子で氏政の弟氏秀(ujihide)であるが、初めは武田晴信(信玄)の養子となり、のちに上杉輝虎(謙信)の養子となって名を景虎と改めていた。   謙信が亡くなると養子の景勝と景虎がその跡目をめぐって争いになった。景虎は御館の乱(otatenoran)で景勝に敗れ敗死した。     (上杉家文書)

五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)については文書が殆ど残っておらず、不明な点が多い。父の氏繁は玉縄衆(tamanawasiyuu)として北条宗家(小田原)の領土拡張政策の先兵として活躍し、岩村城(岩槻)領の支配を行ったり、前記した下総飯沼城(茨城)を築き、常陸の佐竹義重に対する最前線基地とした。 この飯沼城普請には、藤沢(玉縄城下)から大鋸引衆(oogabikisiyuu)が呼び寄せられている。

佐竹義重は下総岩井で北条軍2万の兵を僅か五千の兵で討ち破った武将である。天正五年(1577)四代小田原城主北条氏政が小田原から出陣し佐竹勢と合戦するが勝負はつかず、二か月余り在陣し北進する地盤を固めた。  

越後の上杉謙信が佐竹氏に味方して出陣命令を下すが、謙信49歳で春日山城にて死去する。その後玉縄城主北条氏繁も飯沼城にて43歳で病死してしまった。  これまで父氏繁を補佐していた嫡男氏舜(ujitosi)は、祖父綱成が健在であるため飯沼城主に据えられる。

平成二十四年壬辰・乙巳・庚申
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