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2012年05月

鎌倉の武将・頼朝の御家人(1)

関東の名門・畠山一族

畠山一族の総師・畠山重忠(hatakeyama・sigetada)は、長寛二年(1164)武蔵国男衾(ofusuma)郡に生まれた。先祖は桓武・平氏。
坂東八平氏といわれる秩父(畠山)・土肥・上総・千葉・三浦・大庭・梶原・長尾の中でも、畠山氏は常に筆頭の地位にあった名門である。 同じ桓武平氏の流れをくむとはいえ北条氏とは比べ物にならない。
頼朝が房総で兵を立て直し、鎌倉入りする際に、関東の名門・畠山氏の参陣がぜひとも必要であったことは言うまでもない。石橋山の戦いには、平氏側について参戦、三浦一族を追撃し、本拠地衣笠城で三浦義明を討つ働きをしている。
畠山氏を頼朝が頼ったのは、その影響力であろう坂東八平氏の筆頭畠山氏を味方にすることが、関東を平定するうえで不可欠の条件だったからだ。  参戦の呼びかけに重忠は一族とともに応じた。(弱冠十七歳)頼朝は喜び、「代々吉例の通り今後とも兵陣をつとめよ」と重忠を重用した。重忠は頼朝鎌倉入りの先陣を務め、その後、奥州征伐、義経の木曽義仲追討、平家追討など数々の武勲をたてた。  しかし頼朝が亡くなり、鎌倉幕府二代将軍頼家と比企一族を陰謀と策略によって滅ぼし、北条時政の権力が最高の時代に達していた、同時に息子・義時も次第に力をつけ始めていた時期である。時政は先妻との間に出来た娘、政子の妹を畠山重忠に嫁がせていたにもかかわらず、畠山一族に対して陰謀を巡らせ始めていた。次に将軍についた実朝の御台所を迎える使者として都に向かった畠山重保(重忠・嫡男)は、北条時政・平賀朝雅の陰謀(畠山に北条への謀反ありの)との讒言により失脚。時政の指示で動いた三浦氏の軍勢に重保は由比ヶ浜で討たれてしまった。
一の鳥居付近の宝筺印塔と畠山重保邸跡・石塔 (鎌倉・由比ヶ浜)
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重保を討った北条氏は、武蔵国の館にいた父の重忠を「鎌倉に異変あり」と呼び出し、万騎ヶ原辺りで待ち伏せていた総大将・北条義時に敗れた。
畠山重忠邸址(鶴岡八幡宮・東側) ( 鎌倉・雪の下)s-2010_1020_104614-DSC01073.jpg
北条氏の謀略に武勇でなる畠山重忠は兵とともに敵陣に切り込んだ・・・・。

夕刻には、勝敗は決し、百三十騎余りが三万騎に勝てるはずはなく、畠山重忠終焉の地となった戦場は、今、万騎ヶ原という地名で新興住宅地になっている。

重忠・知行地・武蔵国に野心のある北条一族にまんまと嵌められたのである。

平成二十四年壬辰・丙午・壬辰
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