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2012年06月

廃寺となった幻の寺(永福寺)(Ⅲ)

幻の大寺・永福寺の声を聞いた

鎌倉宮から瑞泉寺へ向かう途中、紅葉谷に折れるあたりに永福寺旧跡の石塔が建っている。
永福寺(youfukuji)は、スケールの大きい荘厳な寺で、頼朝の創建。  鎌倉時代の記録にもしばしば登場する寺であったが、室町時代以降全く消え失せてしまい、幻の寺となってしまった。
永福寺発掘・想定絵図s-2011_0213_122153-DSC01417.jpg

頼朝が永福寺を建立したのは、奥州遠征(文治五年・1189)の後である。  栄華を誇る奥州平泉の藤原秀衛(hidehira)のもとに逃げ込んだ義経は、藤原泰衡(yasuhira)に謀殺されていたが、奥州で独立国のような勢力を持つ藤原一族を滅ぼさなければ天下統一とは言えず、その総仕上げに頼朝は自ら大軍を率いて出陣したのである。

藤原文化の高さは、頼朝が想像する以上のものであったようだ。  中尊寺は、堂宇の数四十余、僧房三百、・・・、清衡・基衛(kiyohira・motohira)の二代、十六年の歳月をかけて造ったと言われる。現存する金色堂は堂の内外はもちろん、床の板まで金箔を施してある。

二階堂・永福寺の手本となった、平泉・毛越寺(moutuji)は秀衛の父、基衛の建立になる、記録によれば中尊寺以上の華麗な世界を作り上げていたと伝えられる。  宇治の平等院をはじめ京都の建物・文化を取り入れた、荘厳な世界を頼朝は見たに違いない。

勝長寿院という父の菩提寺を建立したばかりの頼朝がまた永福寺を建立する気になったのは、こうした背景があったのである。鎌倉に帰った頼朝は、すぐさま永福寺の建立を命じている、この藤原文化の粋というべき、寺院を手本とし、その本堂は、中尊寺二階大堂を模し二階堂としている。

奥州統一を果たした頼朝だが、東北の金と馬によって築きあげた藤原文化には、大きな驚きであったに違いない。

昭和六年永福寺跡地の開発が進み建設工事を始めたところ水田の下から古い瓦片、杭等が出てきたとの報告から、一年余りの考古学調査の結果、寺の概要が明らかになってきた。
永福寺・跡地{一部)s-2010_1029_104810-DSC01115.jpg

調査の結果から永福寺・建築物の中心的な存在は、二階堂と呼ばれた建物で、二重の櫓を持っていた。南側に阿弥陀堂、北側には薬師堂があり、廊で結ばれていたようだ。この薬師堂は政子の発願で供養が行われたが。一年後になぜか頼朝が北側のはずれに薬師堂を立てている。  その他、多宝塔・三重塔・鐘楼等の位置も発掘された瓦片等から推定したものだ。

平泉文化の模倣とは言え、このように永福寺のスケールは相当なものであったし、極楽浄土を表現した浄土庭園の荘厳なたたずまいは、鎌倉幕府のお膝元の寺院にふさわしいものであったろう。
永福寺跡・石塔(鎌倉・二階堂)
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しかし、鎌倉時代を代表する大寺院が水田の下に埋もれてしまったとは、驚きだ。  800年の歳月は、やはり短くはない、他の多くの寺院・神社も同じ運命を辿ったに違いない。   政治・経済の中心が鎌倉から移れば当然、人も物も移動する、神社・仏閣も一緒に移動したのでしょう。・・・   こうして多くの社・寺が衰退し、朽ち果て、忘れられ、草木の下となりやがては水田となり、幻の社・寺となってしまったのでしょう。

平成二十四年壬辰・丁未・辛酉
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