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2012年07月

貴族社会と頼朝

朝廷と幕府

幕府は全国の統合を安定化し、治安を維持するために、強力な御家人組織をもたなければならない。 既に東国ではこの組織が機能していた。元暦元年(1184)以降西国においても、武士を主従制に組み入れようとする努力が続けられた。  東国と違って、御家人を強制する力は充分に働かないから、採るべき手段は武士の自発性を促そうとする事になる。その最も有効な方策は「御所・大番役」である。
頼朝の鎌倉入・最初の事業  鶴岡八幡宮の移座(由比八幡)
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御所・大番役」は皇居を警備する役務であるが、幕府は京に進出した早い段階でこの大番役を独占し、その勤務を御家人に限定した。 大番役の勤務を望む者は御家人にならなければならないと云う事で、御家人化を誘導したのである。 これは武士のもつ朝廷に対する従属志向を利用したと思われる。独立の気風にはかかる志向性が内在していた。

建久年間(1190)には西国諸国でも、国ごとに御家人の名簿が作成された。 それらは幕府の努力の一応の到達点を示しているが、量的には必ずしも充分な成果とは言えない。

平安時代的な武士の精神からいえば、朝廷に従属するとは、京に上り、朝廷に仕え、官職・位階を得る、ということであろう。  しかし、頼朝はそうした行動を踏襲しなかっらた。彼は東国の住人として関東から朝廷と対峙したのである。 頼朝が自らの立場を語った言葉が残る、一つは、京の公卿に宛てた書簡であり、その中で短文ながら、自分は武士であり、坂東の住人である、という自覚が明確に語られている。 これは、自分は京の貴族の仲間入りをするつもりはない、という意思表示でもある。

もう一つの書簡は藤原秀衛に宛てたもので、頼朝は秀衛に服属を勧告したが、その秀衛の上に立つ自分の位置を「東海道惣官」に見立てた(東国全体の支配者)。 この言葉にあるものもまた、東国の住人としての意識である。

頼朝が征夷大将軍の職を願望したと言われるのは、おそらく事実であろう。 頼朝を征夷大将軍に任じるかどうかは、朝廷として頼朝の立場、生き方をそのままに承認するかどうか、という問題であったのであろう。

後白河はついにその承認を与えなかった。頼朝を京に呼び寄せ、貴族の仲間入りをさせたかったからであろうと思われる。頼朝にその意思さえあればいつでも可能であった。  実際、頼朝はなぜ鎌倉に留まったのかという疑問は、現代人にとって不可解であるばかりでなく、おそらくは後白河にも釈然としなかったに違いない。・・・文化なるものは京にしか存在しない時代である、と考えられるからだ。

頼朝は京の生活よりも、坂東武士との主従制に生きる道を選んだ。  坂東武士もそれを期待したのであろう。  寿永二年(1183)後白河法皇の要請に応じ、木曽義仲追討の軍を弟・義経を総大将に命じ、京に進発させた。頼朝は鎌倉から動かない方針をすでに固めていた様に見受けられる。

元歴元年(1184)源頼朝の弟で平氏追討の総大将・源範頼(noriyori)、義経らの飛脚が鎌倉に到着し、平氏軍を破った摂津一の谷の合戦記録を献上する。 その後、一の谷で敗れた平重衛(sigehira)(南都焼き討ちの責任者)が鎌倉に連行されたが、頼朝は、千手前(senjiyunomae)らを遣わし重衛を慰めている。  この様に頼朝は西国での戦は弟達に任せ、専ら鎌倉からの外交に専念したようだ。(吾妻鑑)

同年、大江(中原)広元を別当として、一般政務・財政事務にあたる公文所(kumonjiyo)が開設される、同じく三善康信に命じて裁判事務を担当する問注所も設置された。  広元・康信ともに京都から下向した実務官僚である、頼朝は着々と幕府の基礎を構築しつつあった。(吾妻鑑)

平成二十四年壬辰・戊申・癸巳
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