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2012年08月

鎌倉幕府の特質

源家将軍の幕府から北条氏執権政権による政治の特質

鎌倉幕府について、その不自然とも思える性格について、考えてみた。まず将軍を頂点に据えながら、将軍を排斥してきたこと。また道理と公正を信条としながら、陰惨な抗争を繰り返したこと、さらに公家政権との合理的関係の構築を避ける姿勢をとったことである。元来、主従制を基本原理とする組織として発足したにもかかわらず、非常に早い段階で、「主」が不在となってしまっている。 (頼朝の政治手法に習い朝廷とは一定の距離を置いた)
源頼朝・墓所(鎌倉・雪の下)
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源氏の嫡流、二代将軍の頼家・三代将軍の実朝はいずれも殺されている。・・・頼家は将軍の座を追われ、修禅寺に幽閉され、その後刺殺された。・・・実朝は八幡宮寺に参拝の折に公暁(kugixyou)によって暗殺されている。
創設者、頼朝にしても「吾妻鑑」には落馬がきっかけで、病によって亡くなったことになっているが、その死因についてはさまざまな説があるが、なにか不自然な死にかたであったようだ。・・・・・主従制の源泉として、源氏将軍の血筋は他をもって替えることの出来ない貴重なものと思われるが、なぜこのように粗末に扱われたのだろうかうか。・・・実朝の死をもって頼朝の血統が絶えた為に、四代以降の将軍を京都から迎えるようになり、摂家将軍といわれる、摂関家から迎えた将軍には、ごく遠いとはいえ、頼朝の血筋につながる者を採用しているが、六代以降の天皇家から迎えた親王将軍に至っては、源氏とは全く血縁関係をもっていないのである。
執権北条氏は、これらの将軍たちに政治の実権を握らせないよう、様々に画策し、機会をとらえては彼らの失策をはかった。親王将軍の段階では、幼い子供の時に将軍位につけ、成長すると、なにかと理由をつけて京都に送還する事を、ほぼ20年ごとに繰り返した。
鎌倉幕府における主従制の転換点は二代頼家の時代と思われる。 陸奥国の新熊野神社から境界争いの訴えが起こされた。係争地の絵図面を前にした頼家は、筆を取り上げ、絵図の中央に墨線をひて決裁したという。
現地調査などの公正を担保する手続きを初めから放棄し、もっぱら主人の裁定にゆだねることを求める言葉である。・・・このような状況で、頼家の親裁は止められ、政治運営は幕府執行部の十三人の合議による運営へと変化する。。
将軍の独裁的な裁定が否定され、その対極と思われる合議による判断が導入されたのである。その後鎌倉幕府は頼家・実朝の二人の源氏将軍を抹殺し、執権北条氏が主導する体制に移行する。
北条氏に、血統の正当性や家柄の格式などが欠けている以上、同氏の政権を支える為には、いわば血の正当性以外の条件が必要であった。そこで持ち出されたのが合議による決定という理念である。  その成文化されたものが「御成敗式目」となる、中世・武家の基本法典として、大きな影響力をもったが政権の主催者を巡る争いはたえず、北条氏の地位は常に脅かされることになったのである。合議という手続きから、民主的という概念を思い浮かべるが、将軍を排しての合議は合意に達いない政権の未成熟さを残す結果となり、合議と殺しあいを、交互に行う結果になってゆく。
最後に、前章でもリポートしましたが霜月騒動について別の角度から少し述べてみたい、鎌倉期において、大きな転換点となったのは、いうまでもなく蒙古襲来であり、 幕府にとってまったく新しい展開となったのが霜月騒動であろう。
蒙古と戦うために、幕府は御家人のみならず、非御家人に対しても軍事動員をかけた。  その戦後処理を担当した安達泰盛の一族が滅ぼされたのが霜月騒動である。・・・・・御家人利益を代表する安達泰盛と御内人代表の平頼綱の対立というのが一般的だ。・・しかし両者が格別違った背景をもっていたわけではないと思われる。
御内人の多くは御家人だからである。蒙古襲来を機に、非御家人を動員し、国家的祈祷命令発令という聖域に踏み込まざるを得なくなった幕府は、国家権力を飛躍的に高める為、得宗権力では不足と判断し、将軍を制度的に最高の権力を保持する主君として確立する道を選択した。 しかし、皇室から将軍を武家の首長とするには無理があり、御家人制が、本来閉鎖的な身分特権を前提に成り立っている以上、全武士階級を結集しようとする泰盛の方針は、御家人の反発を買うのは必至であったであろう。
極楽寺(北条)重時の「撫民」(buminn)路線継承し、あえて御家人の不利益をも甘受して全武士階級に対する公正な統治を目指す泰盛と、旧来の御家人利益を守ろうとする平頼綱という図式が見えてくる。
安達泰盛は、非御家人の国土防衛戦参加に報いる為に、彼らに対する報奨と保護を案じたが、それらは現実的には不可能であることも、承知していただろう。蒙古軍に勝利したとしても得られる所領など無いのである、非御家人どころか、御家人にも対応できなかった。鎌倉幕府の御家人集団は上記のような合意を形成できるほど成熟していなかったと云う事が、霜月騒動の本質だと考えられる。・・・・了


平成二十四年壬辰・巳酉・甲子
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