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2012年09月

「吾妻鑑」・「奥州合戦」

更新が遅れましたが、再開します。

「阿津賀志山合戦」続き

平泉軍はかねて阿津賀志山と国見宿の間に口五丈の長大な堀を構え、西木戸国衛を大将として、二万騎の軍勢を揃えて頼朝軍を待ち構えていた。  (現在もこの堀の一部が残っているそうだ。)
東山道・頼朝本隊の先陣の栄誉を受けた畠山重忠邸跡・石塔(鎌倉・雪の下)
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阿津賀志山の麓は東山道を北上する人が必ず通行する、狭い場所である。 その道を堀によって塞げば、平泉軍は高所からの有利な攻撃が可能であり、山の麓に陣を張るのは、多賀国府(陸奥国府)に近い国分原に本陣を置く平泉軍の前線として、よく考えられた布陣と言われる。
此の防塁の造成工事には当時の作業として二十五万人程度を要し、近隣の住人が動員されたと推測されるが、この平泉の防御線はかなり前から練られ、鎌倉との合戦が避けられないものと平泉側も承知していたのであろう。

文治五年八月八日早朝から始まった戦いは、三日間に及び、西木戸国衛陣の前戦を迂回した背後からの攻撃に国衛の陣は総崩れとなり、国衛は柴田郡大高宮(宮城・大河原町)の辺りで和田義盛・畠山重忠に討たれ、泰衛は戦わずに後陣に逃れた。

頼朝は十二日夕刻多賀国府に到着していた。  東海道を北上した千葉介常胤らの軍勢も大手に合流し、翌日には北陸道軍も出羽国に入り、鎌倉軍二万騎が勢揃いするのは時間の問題であった。頼朝がこの合戦に際して二万騎の集結を待ったのは、この重要な境界である栗原郡三迫(sannohazama)の戦が、平泉軍と鎌倉軍の最後の決戦となる重要な戦いであった事を意識していたからに違いない。

「吾妻鑑」の合戦の記述は阿津賀志山合戦については大変詳細であるが、その後の多賀国府以北の合戦はきわめて簡略に記されている。 「吾妻鑑」を読む者には阿津賀志山敗戦の後は、平泉軍は大きな抵抗できずに敗走をかさね、ついには平泉をも戦わずに放棄するありさまだった、という印象が残る。

しかし、頼朝は多賀国府から平泉までに八日間を要している。 これに対し国見宿から多賀国府までの激戦に擁した時間は五日である。  実際には国府以北の戦いにも激しいものがあったのであろう。 それを簡略に済ませるのは「吾妻鑑」の作為の一つであろう。

平成二十四年壬辰・庚戌・癸巳

              
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