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2012年10月

「吾妻鑑」・「宝冶合戦」

第七部・吾妻鑑が伝えた「宝冶合戦」>(houji・katusen)  1・宮騒動

宝冶元年(1247)、 外様御家人最大の勢力であった三浦氏が討たれた事件を「宝治合戦」と云う。  この事件は、執権北条氏による他氏排斥事件の一つとして位置づけられる。 この様な宝治合戦について、事件の推移を伝える史料は「吾妻鑑」の他に見当たらない。 
鎌倉幕府第五代執権・北条時頼建立、臨済宗大本山建長寺・三解脱門(鎌倉・山ノ内)
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宝冶合戦前年の北条時頼の執権継承から見ていきたい。  以前から病に伏していた執権北条経時(三代泰時の孫)の病状が悪化し、経時亭で「神秘の御沙汰」(sinpi・gosata)が行われた。  神秘の御沙汰・・・・・得宗の私邸で行われる私的会議。後の「寄合」の事

参加したのは経時・弟の時頼。  ここでの決定は、経時の二人の子息が幼児である為執権職を時頼に譲ることが決定された。 この後経時は出家し、まもなく、三十三歳で死亡した。  経時の執権就任期間は、僅か四年であった。  また、時頼の執権就任は経時の疾病による臨時的な就任であり、必ずしも順当なものではなかった。 この様な事情が、後の北条時頼の政治に大きな影響を与えることになる。    (この会合に、二人の他の同席者の有無については「吾妻鑑」は触れていません)

新執権・時頼のもと幕府政治はスタートしたが、鎌倉は不穏な動きに包まれた。鎌倉中に甲冑を着けた武士が満ち溢れ、近国の御家人が馳せ参じ、連日の騒動は収まる様子がない状況となっていた。 騒動の原因は翌日になって
具体的に表面化した。  武装した武士達は将軍御所あるいは時頼のもとに馳せ参じ、軍事的な衝突が起きるやに見えたが、将軍御所に籠じていた、名越光時が落飾して髪を時頼に差出し、騒動は落着した。
名越光時・・・三代執権・泰時の弟朝時の嫡男。

騒動の張本人は名越光時である、光時が逆心を挿み時頼追討を企んだとしている。  逆心とは、名越光時らが前将軍九条頼経と結託し、執権時頼を失脚させることだったと見られている。

張本人とされた名越・北条氏と北条氏嫡流との因縁について遡って見ると、執権北条泰時の弟朝時の名越亭を賊徒が襲うと云う事件が起きた。 この時、朝時の兄泰時は執権という重職にありながら、和田合戦や承久の乱に匹敵する事件であると真っ先に駆けつけたのであった。 この話を聞いた朝時は、今後子孫に至るまで泰時流に対して無二の忠節を誓ったと云う。   「吾」寛喜3・9・27条

しかし、泰時を中心とする執権政治が確立してくると次第に疎遠となり、将軍九条頼経と結びつくようになっていった。 嫡男の光時も将軍に近侍するようになっていました。  この様な背景なか「神秘の御沙汰」という密室会議で北条時頼の執権就任が決まった事に名越氏は大きく反発したのであろう。 一方、九条頼綱経が将軍職を退いた後も鎌倉に留まっていたことが、この騒動を起こした大きな原因でもあった。

この騒動で名越光時等、九条頼経の側近が処分の対象となり、評定衆などの役職を罷免された。  この騒動の直後から、時頼亭での寄合がたびたび行われている。参加者は、北条政村(時頼・叔父)・金沢実時(金沢北条)・安達義景が時頼亭に集まり、内々に「御沙汰」があった。  内容は不明であるが、おそらく騒動の処遇についてであろう。その後も寄合は開催され三人の他に三浦泰村・北条氏被官諏訪盛重・尾藤景氏・平盛時が寄合に参加している。  ここで最大の懸念事項であった前将軍九条頼経の京都送還が決定されたのであろう。

以上が「宝治合戦」の伏線となった「宮騒動」と呼ばれる事件である。  騒動はひとまず解決し、名越氏を中心とした反執権側を解体する事に成功したが、将軍の京都送還という強硬手段が、一方で新たな反対勢力を造ってしまったようだ。

平成二十四年・壬辰・辛亥・乙丑
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