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2012年11月

室町期の鎌倉Ⅱ

3・関東管領

鎌倉末期に南朝・北朝に分裂した天皇家も合一され、応永元年(1394)京都では、足利義満が将軍職を義持(yosimoti))に譲り、太政大臣となる。

鎌倉では、関東管領の上杉憲方が没し、上杉朝宗(tomomune)が管領に就任した。 朝宗は犬懸上杉家の系統で憲藤の子で朝房の弟になる。
伝・上杉憲方の墓(鎌倉・極楽寺)
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京都将軍と鎌倉公方間のトラブルの主たる原因の一つに、所轄に伴う任命権の問題があった。  京都将軍と鎌倉公方との間には、補任・被補任の関係はないが、将軍と関東管領(鎌倉公方の補佐役)・東国守護を補任していたのである。このことが幕府と鎌倉府との間に大きな対立を引き起こす原因となっていたと思われる。
(関東分国は鎌倉府の管轄であったが、その人事権は京都の将軍にあると云う関係である)

応永五年(1398)鎌倉公方・足利氏満が没し、足利満兼(mitukane)が公方となる。   同時代の関東管領は上杉朝宗であったが管領を辞し、山内家の上杉憲定が代わって就任した。

応永十六年(1409)鎌倉公方・足利満兼が没し、子の持氏が公方となる。同時期に上杉憲定に代わって犬懸家の上杉氏憲(ujinori)(法名・禅秀、朝宗の子)が関東管領となる。
上杉禅秀・朝宗邸旧蹟・石塔(鎌倉・浄明寺)
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東国の騒乱の幕開けは応永二十三年に起きた上杉禅秀(ueszensiyuu)(氏憲)の乱であった事、その発端は禅秀の家人の処遇を巡って鎌倉公方・足利持氏と対立した事によると云う。  

この乱がその背後に当時の支配関係をめぐる構造的な確執があった事が覗える。  しかし、その後の足利義持(yosimoti)の時代に、関東と京都の間にはどの様な問題が持ち上がり、また関東はどの様な政治・社会状況に置かれていたのであろうか。  上杉禅秀の乱自体は二カ月あまりで鎮圧されたが、問題は其のあとにあった。


当然ながら持氏は今度の戦で禅秀に味方した勢力の掃討戦が行われた、最初に攻撃されたのは「京都扶持衆」と呼ばれた、将軍の息のかかる関東の国人たちで、常陸の佐竹与義(satake・tomoyosi)等であった。  鎌倉公方の所轄地域内にいて京都の幕府と通じ、鎌倉公方の動きを牽制する役目を果たしていた。  公方持氏がこの機会にこうした連中を討伐しようと考えるは当然であろう。  やはり将軍にとって真の敵は鎌倉公方だったのであり、先の上杉禅秀の乱で持氏を支援したのは、政治的な判断ミスであったと言えよう。
「京都扶持衆」・・・・・鎌倉公方の指揮下にありながら京都の幕府と通じ、支援を受けていた武士達の事。

平成二十四年壬辰・壬子・甲午
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