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2012年12月

後・北条氏の盛衰

9・第五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)

北条氏舜については文書の残存率が低く、不明な点が多い。  父の4代氏繁は玉縄衆として北条宗家の領土拡張政策の先兵として活躍し、岩附城(現在の岩槻)領支配を行ったり、下総飯沼城(茨城県猿島郡)を築城している。常陸の佐竹氏に対する最前線基地として対峙した。
  この飯沼城普請には藤沢の大鋸引衆(oogabiki・siyuu)が呼び寄せられた。
玉縄城・大手門付近の石積(当時のものではありません)
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佐竹十九代義重(yosisige)は下総岩井で北条軍二万の兵を僅か五千の兵で退け「鬼佐竹」・「坂東太郎」と周辺の諸将に恐れられた武将である。  (佐竹氏は源氏の流れを汲む一族)

天正五年(1577)小田原本城・北条氏政(ujimasa)が出陣し佐竹軍と合戦するが勝負は付かず、二カ月あまり膠着する。翌年には越後の上杉謙信が佐竹氏に応呼出陣命令を下すが、同年春日山城にて四十九歳で死去する。その三ヶ月後北条氏繁も四十三歳で病没した。

これまで父氏繁を補佐していた嫡男氏舜(ujitosi)、祖父綱成(tunasige)が健在であった為飯沼城主に据え置かれる。氏舜には後の六代城主氏勝(ujikatu)、と直重、直胤、繁広という4人の弟がいたが、玉縄城主も氏舜が継ぎ、武蔵岩槻城の城代にも就任した。

北条氏舜文書は天正五年~八年に限られ、この四年間が氏舜の玉縄城主時代と考えられている。  次の玉縄城主となる北条氏勝の初見文書は天正十一年からであり、この間に氏舜は弟の氏勝に家督を譲り隠居もしくは病没したものと推定されている。  氏舜死去の日付け、墓所、戒名等は確認されず玉縄北条一族の中でも不明な点が多く、子供の存在も不明である。

第六代玉縄城主北条氏勝(ujikatu)は、永禄元年(1558)四代城主氏繁(ujisige)の次男として出生。氏勝が玉縄城主の官名である左衛門太夫(saemonntayuu)を名乗ったのは天正十年頃、兄氏舜から家督を譲られたと思われる。

永年の宿敵・佐竹氏が当主義重の嫡男義宣が元服式を行い常陸国統一に近づく絶頂期を迎えている。また織田信長が信濃から、徳川家康が駿河からそれぞれ甲斐に侵攻し武田勝頼と対峙、これに敗れ武田家は滅亡。・・・・・愈々戦国時代のハイライトを迎えようとしています

今年も最後まで訪問していただき有難うございました。  まとまりの無い文章を根気よく理解していただき感謝、感謝です。   来年の「周辺の風景」はどの様な方向に進むかは、まだ未定です。  取敢えずは「後・北条氏」を進めますので、来年も宜しくお願いします。

平成二十四年壬辰・癸丑・丙寅
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