FC2ブログ

2013年05月

鎌倉地方の「やぐら」とは

2・法華堂・その後

仁冶三年(1242)正月、幕府は次のようなふれを出した。

「一府中墓所事  右  一切不可有 若有違乱之所者 且改葬之由 被迎主 且可被召其の屋地矣」

つまり、鎌倉御府内に墳墓は一切あってはならない。もしこれに違反すれば持ち主に改築させ、土地を没収すると云うのだ。以前からある墓地に対しても規制したものであろうとなれば、大変な規制だ。府内の大改造を試みた都市計画大作戦というところか?・・・・。
源頼朝・法華堂跡(鎌倉・雪の下)
s-2010_1011_103140-DSC01041.jpg
鎌倉という所は山に囲まれた自然の要塞のような町であるが、残念ながら非常に平地の少ない都市である。その平地に無制限に墳墓が出来ていったら生活する場所が無くなリかねない、軍事的にも経済的にも都合が悪い。時の執権北条泰時は鎌倉中の、辻々売買、小路を狭くする事、辻相撲等の禁止令を出している。

要するに道路や土地が狭くなるようなことは規制しなければならなかったのである。 しかし、墓所である法華堂を造れなくなった御家人達はさぞや困ったであろう。せっかく建てた法華堂も取り壊し、墓所を改葬しなければならない。が、府内に土地は無いのである。

苦肉の策として彼等が考え出したのが「やぐら」だった。

やぐらを思いついたきっかけは、奈良、平安時代の横穴式墳墓(ouketusiki・funbo)だと言われている。掘ってみると、鎌倉石と呼ばれる石は比較的軟らかい。要するに加工しやすいのである、法華堂風の横穴も出来ると云うことになったのかもしれない。

あるいは、石窟寺院などに影響された結果だと指摘されている。  また、寿福寺から八幡宮へ向う途中にある岩窟不動尊(iwaya・fudouson)は、「吾妻鑑」に窟堂(iwayadou)と記されている。この寺院は、不動明王を祀る岩窟が仏堂なのである。それから逗子の岩殿寺(gandenji)も本堂裏の岩窟に本尊が祀られている。

これら石窟寺院は鎌倉周辺だけのものではないそうだし、京都、奈良周辺にも多く作られている。仏殿としての岩窟と言う意味では充分に「やぐら」の前身と考えてもいいのではないか。

土地不足を「やぐら」という代用品で解消した事によって、鎌倉時代の史跡として今日まで残されたともいえる。木造の法華堂や寺院建築はみな焼失したまま再建されていない。  鎌倉には廃寺も多く、現存している物でも建物は江戸期に再建されたものが殆ど。肝心の鎌倉時代の史跡そのものが無いのが物足りない・・・・・。

だからこそ、「やぐら」と言う、先人が残した貴重な史跡を心して保存し、将来へ継承して行く必要があると考えますが・・・。

平成二十五年癸巳・戊午・丁酉
スポンサーサイト