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2013年06月

武家による政治の定着

この時宗の時期を通じて幕府体制の整備が計られ、宋風文化を取り入れた事により幕府と武家文化は独自性を強め、それが武士や僧を通じて日本の社会全般に広がったのです。
金沢実時創建・金沢称名寺(律宗)三門(横浜市・金沢区)
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二度のモンゴル(元)の襲来を退けた北条時宗の死を受け、幕府は嫡男・貞時を中心に執権政治を遂行してゆきます。  幕府の基本方針は、徳を広く万人にもたらす徳政にありました。武士の経済的窮乏を救う為の徳政令を出し、武士の訴えを迅速に処理する訴訟制度の整備を計りましたが、その中で裁判や訴訟を専門に扱う奉行人を中心として官僚制が整えられてゆき、法令集や訴訟制度の解説書も編纂されました。

鎌倉は日本の政治の中心地となり、人・物が鎌倉を目指して殺到した。幕府はそれらの対応に忙殺されたが、この時代が北条氏・執権政治の最も繁栄した時代であったのではなかろうか。・・・その後政治の内紛が起き、民心に動揺が起きると云う情勢において、幕府の歴史書の編纂が、北条氏一門の金沢氏の周辺で始まりました。

*「吾妻鑑」・・・鎌倉時代を代表する歴史書。

幕府の歴史を見つめる事で、武家政権運営の在り方などを自覚し、それとともに幕府体制の見直しを計ろうとしました。

この時期のも、多くの禅僧が鎌倉に入りました。時の執権・北条貞時は禅を理解し、大陸の五山制度に倣い禅宗寺院を手厚く保護しました。一方律宗や日蓮宗なども鎌倉に入る中で、それらとの競合から独自の存在を主張しました。そして鎌倉に場を見だしてゆきました。  特に律宗の極楽寺は忍性(ninsiyou)を招き、弱者の救済を行い、幕府の政策とも一致しその支援を受け、禅宗と並んで保護されました。  また日蓮宗の寺院は下町に広がりましたが、それは鎌倉が都市として発展した結果でしょう。

狭い土地を開発し、寺院が建てられ、禅宗寺院には庭が造られるようになり、瑞泉寺のような禅の境地に関わる庭園も造られるに至り、墓所も「やぐら」と称される横穴墓が広く造られました。横穴墓は禅僧が中国の横穴墓をもちこんだ事が相俟って、この風習が広まった様です。

鎌倉幕府は鎌倉を根拠地としてから150年で滅亡しましたが、この間に武家政権と武家文化は独自の達成を遂げました。それは武士の成長とともに変化して来たものであり、武士身分に備わった文化を鎌倉に定着させてゆく中で、京都の公家文化を積極的に取り入れて武家文化を洗練させ、やがて大陸の宋風文化を取り入れることによって独自の文化を生み出し、150年を要して武士文化・武家文化の基礎を造り上げられたのだと考えます。・・・・・終り


平成二十五年癸巳・己未・丙寅
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