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2013年07月

相武の武士団(Ⅴ)

*三浦氏の本拠地(続)

三浦氏一族が、衣笠城を中心に三浦半島各地に館をたて、周辺部の開発を行う、いわば開発領主であった事は、他の武士団一般と同様であるが、対岸の房総半島への発展や、頼朝挙兵後も直ちに房総地方へと移動している事実などから見ると、水軍的性格を強く持っていた一族と考えてよいでしょう。

次に、三浦氏とともに桓武平氏の流れと主張して、県の西半部一帯に発展していった武士団が中村氏一族である。中村氏の苗字のおこった中村荘は、現在の小田原市の東と中井町一帯と推定される。

*中村氏一族

この中村氏もまた、中村荘司・平宗平を十二世紀半ばの天養元年(1144)の源義朝(yositomo)の部下と国衙の在庁官人らが連合した一千余騎の軍勢が大庭御厨に侵入した時に、中村荘司宗平は三浦義継・義明と共に、その主要メンバーとなっていた。これが中村氏の武士としての初出の確実な史料である。(神奈川県史資料編)

中村氏一族の系図を見ると庄司・宋平の子供の代に三浦氏と同様各地に分家して大きな発展を遂げている。長男の重平は本領の中村荘を受け継いで中村太郎を名のり、次男の実平は現在の湯河原付近一帯をそれぞれ継承している。その他宗平の娘は三浦義継の末子、岡崎義実に嫁いでいる。こうして相模国東部の有力武士団三浦氏と西部の有力武士団中村氏は手を結びあい連携していった。
鎌倉時代・商人の町、大町四つ角(鎌倉・大町)
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鎌倉時代に入ってすぐの文治二年(1186)頼朝は三浦介義澄(yosizumi)と中村荘司宗平(souhei)とに命じて、相模国内の「宗たる百姓」すなわち有力な百姓たちに一人当たり一斗(ituto)ずつの米を分け与えたとの記述が「吾妻鑑」にある。

このように一国全体の百姓たちに関する事務を取り扱った三浦介と中村荘司とは、ともに当時の相模の国衙を取り仕切っていた有力在庁官人だったに違いない。  三浦氏の場合は「介」の称号自体がすでにその事を物語っているが、三浦氏と同様な任務を与えられた中村氏も、ほぼ同挌の有力在庁官人の家と推定される。

平成二十五年癸巳・庚申・戊戌
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