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2013年08月

富士川合戦

*関東武士の強さの秘密

鎌倉入りした頼朝は、落ち着く暇も無く出陣の準備に忙しかった。西から、平維盛(taira・koremori)を総大将とする頼朝討伐の軍勢が駿河まで迫ってきていた。
小動崎から望む江の島の夕景(鎌倉・腰越)
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東の源氏と西の平家が対峙したのは、静岡県の富士川。  いわゆる富士川の合戦である。

この戦いは、伝説にもある様に水鳥の羽音に驚いた平家軍が敗走したと云う逸話になっていますが、すでに平家軍は戦況不利と見て退去しようとしていたようだ。甲斐源氏と合わせた頼朝軍の軍勢は二十万騎を越え、意気上がる頼朝軍に対して、維盛軍は合戦以前に疲労していた。

折からの大飢饉で、兵糧も不足、兵も足りなかった。敵前で源氏に投降する軍もでた。また、維盛と参謀の平忠清(taira・tadakiyo)との対立もあったようだ。

この様に平家側の不運もあったが、すでに東国の武士と西国武士の優劣がはっきりして来たのも事実です。「平家物語」などによれば、東国武士の弓は強弓であるとか、大名には500騎以下の者はいない、また東国の武士は優れた馬を多く産し、戦も強い事などが紹介されている。

特に馬の調達は、軍事面ばかりでなく、経済面からも重要であった。そして東国の馬のほうが、西国に比べ優秀だった点も、歴史を作る上で大きく影響したことでしょう。

鎌倉時代の馬は、今日の競走馬や乗馬用の馬とは大分違っていた。体高は低く、脚も短く太かった。記録によれば体高は120センチ程度で現在の野生の馬と同じ大きさと思われる。

頼朝も、馬についてはもちろん重視しており、名馬を産する東北地方では、牧場経営に経験のある御家人を守護、地頭に任命し、軍馬供給に怠りない人事を行っている。この効果は鎌倉中期以降には表われいる。

平成二十五年癸巳・辛酉・己巳
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