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2013年09月02日

鎌倉に幕府を置いた本当の理由

*政治家頼朝の都市造り

「鎌倉へ!!」 頼朝が進軍を命じたのは、安房の頼朝のもとに、各地の武士が集結した頃、いち早く頼朝に従った下総の豪族・千葉常胤(tiba・tunetane)の進言もあって、鎌倉を幕府の本拠地と考えたようだ。
鎌倉入府当初・幕府政庁をこの地と検討された鎌倉・扇ヶ谷付近(現在の寿福寺)
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>自然の砦そのものの地形

自然の要塞の地であることは、鎌倉を訪ねれば解るでしょう。   平地といえば、雪の下、大町、小町、長谷、材木座、大倉、二階堂。それに扇ヶ谷、山之内の狭い平坦部しかない。そうした平坦な場所を歩いていると、常に小高い山々に囲まれていることに気づく。その山に登ってみると、鎌倉の街並みが砦の中の街である事が実感できるでしょう。

鎌倉アルプスと呼ばれる尾根を歩くハイキングコースがあるが、鎌倉市街地の反対側はすでに開発が進み新しい住宅が並んでいる。市内側は規制によってかろうじて景観を保っています。開発が進んでしまった鎌倉の山々だが、当時は立派な砦の役目を果たしていたのです。

鎌倉に出入りするには、急峻で狭い七切通ししかなく、鎌倉滅亡の最後の攻防の舞台となったのもこの切通しです。

>先祖の威光

源氏姓は、清和天皇(858~876)の皇子・貞純親王の子・経基(tunemoto)が降下した時に始まる。経基は東国で勢力を持った人物でしたが、その曽孫に当たる源頼義(minamoto・yoriyosi)は,相模守に任ぜられ、しかも東北の蝦夷討伐に当たった。  その戦勝感謝から、京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉・由比郷に勧請したと言われる。 (現・元八幡)

また頼義の子・義家(八幡太郎)も父同様東北平定に力を注いだ。  化粧坂を上った左手一帯をいまも源氏山と言うが、ここは源義家が兵を集めた場所。山の上で白旗ををかかげて戦勝祈願をしたので白旗山とも、武器庫があったので武庫山とも呼ばれる。現在は青年・頼朝像を中心とした穏やかな公園となっています。  (続)

平成二十五年癸巳・壬戌・辛未
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