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2013年09月04日

鎌倉に幕府を置いた理由

*先祖の威光・続き・

八幡太郎義家が生れるにあたって、父頼義は、長谷の甘縄神明社に誕生を祈願し、生れた家も神明社の下だと伝えられる。
源氏山公園下・石塔(鎌倉・寿福寺門前)
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小さいながら品のある社で、義家の束帯姿(sokutai)の木像を安置している。神明社を此処に祀ったのは、社伝によれば神亀年間(724~728)というから相当に古い話だ。祭神は天照大神。  由比の長者・豪族染谷太郎時忠の勧請で建立されたとあります。

義家ゆかりの古社だけに、頼朝は鎌倉入りしてから政子を伴い度々参詣しています。

「吾妻鑑」から一節を引用して紹介します 。   「暮れ及びて雪ふる。二品ならびに御台所甘縄神明宮に御参、御還向の便路をもって、籐九朗盛長(安達)の屋敷に入御す・・・・・・」

藤九朗盛長とは、流人時代からの頼朝の従者で、この神明社の近くに盛長の館があった。  (吾妻鑑)
将軍となった頼朝は、気の置けない盛長との語らいの時を過ごしたのでしょう。

頼朝の父・義朝も鎌倉に館を構えていた。場所は源氏山の麓、現在の寿福寺のあるあたりと推定されています。上記に掲載しました源氏山・石塔があるあたりその場所です。その他に別邸を逗子に持っていたことも記録にある。頼朝の兄・悪源太義平(akugenta・yosihira)も一緒だったらしい。  頼朝は、この義朝館跡に、幕府の館を構える予定であったが手狭な為に諦めたと云われる。 (了)

平成二十五年癸巳・壬戌・癸酉
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