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2013年09月08日

都市づくりの青写真

海岸方面から鶴岡八幡宮を望む(鎌倉・由比ヶ浜)
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*構想は鎌倉入りする前に出来ていた・・・・

頼朝が大軍を率いて鎌倉入りしたのは、治承四年(1180)十月の事、早々に由比郷の鶴岡八幡宮に参拝しています。この八幡宮は100年以上前に先祖の源頼義が、京・石清水八幡宮から勧請して建立したもので、源氏代々の武神と言われる。 現在は元八幡と言われています。

頼朝は、この参拝の数日後に鶴岡八幡宮を鎌倉の地の首座に当たる大臣山下に移した。現在の舞殿辺りと思われます。もちろん仮社で茅葺の粗末なものであったであろうが、実に素早い措置である。

「吾妻鑑」の一節に「武衛(頼朝)の御願として、鶴岡若宮に於いて、長日(tiyouniti)の勤行(gongiyou)を始めらる。いわゆる法華・仁王・最勝王等鎮護国家の三部妙典、そのほか大般若経、観世音経・薬師経・寿命経等を奉仕した」とあります。

短時間のうちに東国武士の総大将となったものの、いまだ完全に掌握したとはいえず、平氏の源氏追討の兵は鎌倉に迫っていた、頼朝の心の不安は充分察せられた。八幡宮に祈り、経を声に熱がこもったのは当然であろう。

鶴岡八幡宮を鎌倉の首座の地に据えた頼朝は、次に自らの邸宅をその東側の大倉の地に建設する事ととして、鎌倉党の大庭景義(ooba・kageyosi)にその作業の監督を命じた。幕府の首都鎌倉の建設の開始であり、石橋山の敗戦の日から数えても、わずかに四十日しかたっていない。

富士川の合戦に勝利し、逃げる平氏軍を追尾して京都に攻めのぼろうとする頼朝に対し、三浦義澄(miura・yosizumi)・千葉常胤(tiba・tunetane)・上総介広常(kazusanosuke・hirotune)ら東国の諸将たちは、まず関東地方の支配権の確立を献策し、頼朝はこれを聞き入れ軍を返した。

凱旋して相模の国府に帰着した頼朝は、ここで大規模な論功行賞を行い、付き従ってきた武士たちに本領を安堵し、新たな恩賞地を与えるとともに、降伏して来た平氏方の武士たちの処分を決定した。  伊豆から南関東一帯を支配下に収めた頼朝は、常陸の豪族・佐竹氏一族を平定し、さらに支配地域を拡大した。

鎌倉に帰った頼朝は幕府に侍所(samuraidokoro)を置き、三浦氏一族の和田義盛(wada・yosimori)を初代の長官たる別当(betutou)に任命して、輩下の御家人武士団の統制にあたらせた。 (侍所別当)   【三浦氏の重用】

幕府館を大倉の地に決定したた事は前述しましたが、ここはその昔、源頼義の館があったと云う説もあります。
幕府館と言っても、古い屋敷を移築改修した程度の仮の館と考えられていますが、この幕府館といい、八幡宮と言い、いかにもスピーディーだ。この手際の良さは、頼朝の都市計画が、鎌倉入りする以前にすでに練られていた事を物語っています。

さらに驚くべきは、旗揚げの前に頼朝は、密かに伊豆を抜けだし鎌倉方面の調査をしたと云う推測まであります。裏づけるような文書もあるようだが、その手際の良さを見れば、そうした推測や史料も信憑性を帯びてきます。

平成二十五年癸巳・壬戌・丁丑
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