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2013年09月10日

幕府成立の背景

*「貴種」の正嫡・頼朝の権威

頼朝軍は当初、国の目代以下、京都から下向していた朝廷側の人物を逮捕し、地方人である在庁官人はじめ現地の武士たちを自軍に組織し、敵対者は攻撃し、その所領を没収した。
若宮大路海岸通り付近・一の鳥居(鎌倉・長谷)
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東国を支配し、新たな組織を作り上げる為には、解体しつつあるとはいえ、未だに生命を保ち続けていた当時唯一の地方行政組織であり、武士団の砦となっていた国衙の在庁組織を利用する事が、もっとも賢明な方法だったのでしょう。

国府を中心に国内にひろがり、さらには京都へと連なる道路交通網。国内各地に置かれた郡・郷、国府の倉庫群と、そこに収納されていた租税・年貢類。国衙に保管されていた倹注帳をはじめとする種々の重要な基本的帳簿類と、それを操作できる役人としての在庁官人。これらを利用しなければ幕府の支配はスムースにいかなかったと思われます。

最初の大規模な論功行賞が、相模の国府で行われた事も決して偶然ではない。所領の没収にせよ、保証にせよ、国衙に置かれた土地台帳類と、その作成・管理に当たっていた在庁官人の協力なしには有り得なかったでしょう。

公領・荘園を問わず、頼朝は従者となった武士たちに対し、一身の安全と所領支配を保証し、その代わりに武士としての頼朝軍への参加、すなわち軍事的勤務を要求した。

こうした関係がこの時代に出来あがった新しい関係で鎌倉殿(将軍)と御家人との間にむすばれた御恩と奉公の授受に基づく主従制度、すなわち御家人制度の成立であり、ヨーロッパ中世の封建制度と本質を同じくする日本の封建制度の原型なのであろう。

治承四年の幕府成立時までに、相武地方には広く御家人制は行きわたり始め、その頂点に立つ頼朝の地位は確固たるものになっていった。そして以後二年あまり、頼朝はもっぱら鎌倉を中心とした新たな政権の基盤となるべき東国支配の地固めに専念した。

*治承四年幕府成立は。・・・リポーターの私見。

平成二十五年癸巳・壬戌・己卯
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