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2013年09月24日

奥州へ

王権との軋轢に一旦終止符を打った頼朝の関心は、奥州に君臨する藤原氏にあった。・・・・・大庭景能(ooba・kageyosi)が進言した「軍中では将軍の命令のみを聞き、天子の詔を聞く必要はありません」と・・・。

頼朝の決断は早かった、文治五年(1189)頼朝は様々な形で平泉に圧力を加え、剛毅な秀衛(hidehira)が死去すると、その嫡男・泰衡(yasuhira)は頼朝に屈した。庶兄国衛(kunihira)とともに義経を主君として仕えよとする秀衛の遺言に背き、義経を殺害しその首を鎌倉に送ったと云う。
奥州平泉・毛越寺、古くは京都・平等院を模したとされる鎌倉二階堂・永福寺跡    (基壇再現)
写真右手に池が配置され公園とし公開されます。
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これで鎌倉との衝突を回避できると考えた泰衛であったが、頼朝の狙いは義経の首では当然なかった。 王権と結合しうる有力な武士を相次いで粛清して来た頼朝は、弟・義経の逃亡を口実に、最後の残った独立勢力、北方の脅威であった奥州藤原氏の討滅を意図していた。頼朝の本当の狙いはここにあったと考えられている。

頼朝はこの奥州討伐に東国はもとより、九州に至る諸国から武士たちを動員したと云う。日本の軍事・警察権を独占し、王権を擁護するものこそ頼朝であることを天下に示す戦いであった。 後白河はこの討伐に反対し、院宣を与えなかった。     このような状況の中で冒頭の景能の一言が生れたのである。

もはや、頼朝はたんに王権に従属する存在ではない。「院」に対抗できる権威を、勝利のなかから築き挙げていたのである。 たいした抵抗も無く平泉に到達した頼朝軍が目にしたのは、坂東では想像もつかない、豪華な堂塔の数々でありました。

*奥州・藤原氏

十一世紀後半、前九年・後三年合戦の勝利の成果を独占した藤原清衡(fujihara・kiyohira)は、摂関家と結んで荘園管理者として高い政治的地位を確保した。  豊富な砂金と駿馬、北方交易の珍宝を通じて莫大な財力を築いた。その財産によって、都における最高の技術者を招き、比類ない仏教文化の華を開かせた。

金色堂に代表される中尊寺である。  それは、単に財力を誇示するものではない。戦乱における父や妻子はじめ、多くの人々の死を目のあたりにした清衛の祈りの現れでしょう。

仏教を中心とした都市形成と、中央との抗争を回避して平和を守ろうとした方針は、元衛(motohira)、秀衛(hidehira)、に継承された。一見軟弱に見える泰衛(yasyhira)の行動も、戦争を回避しようとした選択ではなかったろうか。

しかし、頼朝にとって王権と密接に関係する奥州藤原氏が、強大な勢力を維持する事を許すことは出来なかったのでしょう。さらに頼朝には、所領拡大を求める東国武士たちがいて、その願望を押さえ切れない。幕府はつねに敵対者を設定せざるを得なかったのである。

平氏一門を葬り去った東国武士たちは、その矛先を奥州藤原氏に向け、東国武士たちの大軍によって、あっけなく敗れ去り、泰衛は蝦夷に逃れる途中、朗従によって討たれ、清衛以来の平泉の栄華も終わってしまった。

この結果、後白河と頼朝との確執も、義経、奥州藤原氏の滅亡で最終的に決着した。・・・長きにわたる内乱が終結し、後白河は事実上武装解除され、頼朝に保護される王権となったのである。   翌建久元年(1190)頼朝は三十年ぶりに上洛するのである。

平成二十五年癸巳・壬戌・癸巳
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