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2013年09月28日

東国御家人と西国御家人

*日本国総追捕使として軍事警察権を掌握

守護が国ごとに御家人を統率する軍事・警察組織は、畿内・近国で典型的であった。  幕府軍は義仲を討ち、さらに一の谷合戦で平氏を破り、初めてこの地域に進出したが、その段階でこの地域の武士に平氏追討への参加を促し、守護を置いて彼等を統率させ、御家人化を進めていった。 その体制が建久年間に完成したのである。
鎌倉初期・問注所跡・石塔(鎌倉・御成)
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北陸では平氏追討よりも、戦乱による荒廃を復興する事が急務であった為、国ごとの守護の設置は畿内よりはやや遅れて組織されたようだ。九州は幕府勢力の進出が最も遅れた地域であり、国ごとの守護の設置は建久八年頃となった。

幕府の本拠地である東国では、畿内・近国等のように、幕府に無関係であった地域で武士を動員すると云う問題は起こらない。 東国にも守護が置かれていたが、東国守護は一般に御家人統率権を持たず、その特色は一国単位の警察権である。それは以前から相伝して来た権限を幕府によって安堵された例である。

以上のように、東国の武士は守護を通してで無く、惣領(souriyou)を通して一族単位で動員されたのある。 一般に東国御家人は惣領制によって編成され、西国御家人は守護制度によって編成されたと言えよう。

*惣領制・・・・・武家独特の一族結合制度。 中世武士団の形成する同族結合の体制で、分割相続を基底とする経済組織に立脚しながら、その所領の分散を防ぐ。  平安末期に起り、鎌倉幕府体制を支える組織となる。

*相武武士団の変動

鎌倉幕府成立前後の東国の武士団、さらには相武の武士団がどの様に変動したかを検証してみる。
まず、頼朝挙兵当時、この地方の武士団が頼朝方、平氏方のいずれかに属したのか、の色分けから考えなければならない。石橋山合戦当時の頼朝方の武士団は三百余騎と言うが、「吾妻鑑」に名の記されている武士は四十六名。このうち相模の武士は以下の通り。

土肥次郎実平・弥太郎遠平、土屋三郎宗遠・次郎義清・弥次郎忠光、岡崎四朗義実・与一義忠、中村太郎景平・次郎盛平らの中村氏一族と遠族、
大庭平太景義・豊田五郎景俊らの鎌倉党の一部、
本来は近江出身の武士で、源氏方であったので所領を失い、相模に流寓していた佐々木太朗定綱・次郎経高・三郎盛綱・四朗高綱の佐々木兄弟、・・・・・。以上の十五名である。

その他に石橋山合戦の際、三浦郡から頼朝方に馳せ参じようとして、間にあわなかった三浦一族として「吾妻鑑」は、

三浦次郎義澄・十郎義連、大多和三郎義久・義成、和田太郎義盛・次郎義茂・三郎義実、多々良三郎重治・四朗明宗、筑井次郎義行、ら十名の名をあげている。

以上をまとめれば、挙兵当時の頼朝方の武士は、古くからの相模国衙の有力在庁たる三浦氏・中村氏の一族に、鎌倉党の一部、さらに佐々木兄弟のような浪人から成り立っていたと言えよう。      (続)

次回は平氏方に属していた相武の武士についてリポートします。

平成二十五年癸巳・壬戌・丁酉
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