FC2ブログ

2013年09月30日

相武武士団の変動

頼朝挙兵当時平氏方に属していた相武の武士を「吾妻鑑」の記録から列記して見ます。

大庭三郎景親、俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟谷権守盛久、海老名源三季貞、曽我太郎祐信、滝口三郎経俊、毛利太郎景行、長尾信吾為宗・信六定景、原宗三郎景房・四朗義行、飯田五朗家義、波多野右馬允義常
萩野五郎俊重、梶原平三景時、を加え、三千騎以上の軍勢であったと云う。


鎌倉を本貫地とする梶原平三景時一族を祀る御霊神社(鎌倉・梶原)
s-2011_0421_094348-DSC01574.jpg

この時、平氏方に属していた武士の多くは、後に頼朝に降伏し、「吾妻鑑」は、僅か十分の一程度が処分されたと記されている。確かに死罪と明記された武士は、大庭景親、萩野俊重、波多野義常などわずかで、その他の多くは所領を没収され、頼朝方の武士に身柄を預けられる、という処分を受けていた。

北鎌倉の山ノ内荘を没収された滝口経俊は土肥実平に預けられた、河村義秀は河村郷を没収され大庭景義に、後の記録から推測されている。

鎌倉党の中で兄弟と思われる大庭景義・景親が敵味方に分かれたような場合も、当時として決してめずらしいことでは無く、幕府成立前後を通じ、これらの事情を考えると、武士の一族単位が完全に滅亡した例は殆ど見られない。 そして種々の理由によって、結局は許され正式の御家人となり、その後活躍した武士は多数にのぼる

相武地方現地の支配領域図には、鎌倉幕府成立前後を通じて案外に大きな変化を生じなかったのである。むしろ当時の大事件「冨士の巻狩り」に関連した大庭景義・岡崎義実らの失脚事件の方が、相武地方の領主達に大きな影響を与えたかも知れない。そして頼朝の死後、北条氏の勢力伸長の経過を通じて、相武地方の領主達の支配領域の地図はすっかり塗り替えられていくのである。  (了)

平成二十五年癸巳・壬戌・己亥
スポンサーサイト