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2013年10月

元軍・博多湾へ

*武器と戦法

元軍の指揮官は高い場所にいて、指揮を執った、兵を引くべき時は逃鼓(tiyouko)を打ち、攻撃の時は責鼓(sekiko)をたたいて指示した。逃げるときは鉄砲を飛ばして煙幕をはったといわれる。日本軍と元軍では武器やその使い方が異なっていたが、戦法も全く違った。
文永・弘安の役、戦没者の菩提を弔う為に北条時宗が建立した。(敵・味方共に)創建時・仏殿の三つ鱗紋(円覚寺)
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日本の武士たちの戦い方は、源平合戦の時と変わらず、一騎打ちであった、対する元軍は指揮官の指揮による集団戦である。日本軍はこの未だ経験したことのない戦いに戸惑い、多くの武士が討たれてしまった。

こうした中で日本軍も善戦したが、元軍が優勢で、日本軍は退却し、大宰府の水木(mizuki)の城まで退却した。 水木城とは、白村江(hakusonkou)の敗戦直後の664年、九州防衛のために大和朝廷によって築造された土塁・水城(mizuki)の事である。

福岡平野での合戦初日は元軍の勝利に終わった。元軍は博多の街や筥崎宮(hakozaiguu)に火を付け焼き払ったと云う。

文永の役で元軍が撤退した理由は、いわゆる神風によるものという見方が定説ですが、この元軍の撤退は予定の撤退であったと云う説もあります。混成軍でかつ艦船数が多い為、指揮系統が一致せず、また準備した武器等も少なく、一撃撤退も予定の行動という歴史学者もあります。

*私も此の説には賛成で、旧暦十月二十日(新暦十一月二十六日)当時の台風は考えにくい。

次回10月30日の更新休みます。・・・・・十一月より竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」~弘安の役へとリポートする予定です。

平成二十五年癸巳・癸亥・丁卯
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