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2013年12月31日

将軍の地位を窺う鎌倉公方

*公方・足利持氏の管領・上杉憲実暗殺計画

正長元年(1428)足利持氏が京都に進撃しようとして上杉憲実に諫止される。  前述したが、将軍・義持が没し弟の義教(yosinori)が後継に決定したことに異議のあった持氏が不満を抱いたためという。持氏は憲実の諫止を聞き入れず、京都に向け出兵の準備を命じた。憲実は新田氏が上野より鎌倉を襲うという情報を流して、持氏を思いとどまらせたという。

伝・上杉憲方墓(第五代関東管領)・(山之内家)・(鎌倉・極楽寺)
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永享元年(1429)、京都では正長から永享へ改元が行われていたが、足利持氏は従わずに正長の年号を使い続けました。  しかし、永享三年に持氏の使者二階堂盛秀(nikaidou・morihide)が将軍義政(yosimasa)(五代)との対面が許されたため、京都と鎌倉は一応の和解を遂げていました。  鎌倉でも京都に従い新年号を使い始める。

鎌倉の鶴岡八幡宮に、足利持氏が自らの血を混ぜて書いたという「血書願文」が残っているそうだ。   怨敵(将軍義教、と義教に通ずる京都扶持衆のこと)を退けて関東の支配を全うしたいと祈願しています。  (八幡宮文書)

永享七年(1435)、足利持氏はは東国の諸将に命じ、幕府と気脈を通じる、陸奥の篠川御所・足利満直(asikaga・mitunao)・(叔父)に対して討伐軍を派遣した。続いて信濃守護・小笠原政康(masayasu)と村上頼清(yorikiyo)との争いに介入、幕府指揮下の小笠原に対抗する村上方に援軍を送っている。その様な状況で、京都と鎌倉の関係は急速に悪化し、上杉憲実が持氏に諫言するも、聞き入れられず、この両者の関係もまた悪化する一方でした。

足利持氏の子賢王丸(kenoumaru)が元服する。上杉憲実は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱(henki)を請うように勧める。しかし持氏は聞き入れず、将軍の通字を入れて「義久」と名付ける。その後、持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は鎌倉を出奔しれ領国の上野に退避していたが、持氏が憲実討伐のために出陣するに至り、幕府は持氏討伐を決定する。  (永享の乱)

*偏諱・・・・・将軍や大名が、臣下や元服する親族に自分の名前の一字を与えること。賢王丸元服の際には、本来は将軍義教の「教」を付けた名前でなければならなかった。

幕府軍との戦いに敗れ、足利持氏が鎌倉永安寺(youanji)(二階堂・廃寺)で自害した。  上杉憲実は幕府に対して持氏の助命を嘆願したが、叶わなかった。憲実は家督を弟清方(kiyokata)に譲り引退した。  (続)

*永禄四年(1561)、上杉憲政(uesugi・norimasa)が長尾景虎(nsgao・kagetora)(上杉謙信)に家督と関東管領を譲るまで、120年を要します。

今年も、最終回までご覧いただき有難うございます、自分勝手の解釈に違和感を覚えるかしれませんがお許し下さい、来年もこの調子で更新を続けるつもりです。・・・・・鎌倉の石塔・周辺の風景へ御来訪の皆様、迎えられます「甲午年」がより良き新年でありますようお祈り申し上げます。<<感謝>>


平成二十五年癸巳・乙丑・辛未
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