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2014年01月

後北条氏・二代当主氏綱

*北条氏を称したのは実はこの宗瑞の子・氏綱が名字を伊勢から北条に改めてからの事ですが、現在では伊勢宗瑞までさかのぼり「北条早雲」と呼んでいます。

北条氏綱の文書上の初見は永正九年(1512)、で早雲の後継者としての活躍していたことが覗え、大森氏から奪取した相模国・小田原城に在番していたことが推定される。

*永正十五年(1518)、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となる。さらに翌年早雲の死去と共に伊勢氏(後北条氏)を継承した。

氏綱の家督相続と共に伊勢(後北条)氏は虎の印判状を使うようになっていた。  印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を厳重に抑止する体制が整らえた。   それまで、守護が直接百姓に文書を発給する事は無かったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が一層進展した。

後北条氏の租税・・・・・初代北条早雲が伊豆を平定した際に定めた四公六民の租税が領民の生活を安定させた。 即ち領内の生産物の六割が領民の取り分である。・・・領民の安定を図ったのあろう。  (私見)

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北条早雲の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を拡充させ本城とした。 また家督相続に伴う代替りの検地を実施、安堵状の発給を行っています。

大永年間(1521~27)に氏綱は相模国・寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建、そして相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を盛んに行っています。  その際には「相模太守」を名乗り、事実上の相模の支配者たるを主張しています。・・・氏綱が相模守になった記録はありません。

*北条氏への改称

大永三年(1523)、氏綱は愈々名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めたと推定されています。 伊勢早雲は明応の政変(1493年)を契機に室町幕府の承認を受けながら伊豆に侵攻して領国化し、さらに相模をも平定したが、山之内家・扇谷上杉家の両上杉氏を初めとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれ抵抗を受けていました。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い執権北条氏の後継者たらんとする発想は早雲の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる。・・・最近の解釈では、この北条氏改称は単なる自称ではなく、正式に朝廷に願い出て承認されたものと考えられている。

*数年後には執権・北条氏が任官した左京大夫に任じられ、家格的にも今川・武田・上杉氏と同格となる。

平成二十六年甲午・丙寅・辛丑
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