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2014年04月16日

中世都市・鎌倉

*畠山重忠と三浦一族

「秩父家」としての同族意識を持つ秩父平氏は、武蔵国一帯のみならず、下総・相模にまで一族を進出させていた。畠山・河越・豊島・葛西・渋谷など本領名を名字に名乗った彼らは、個々に自立した武士団を構成していたが、観念的には秩父家の「家督」に従うべきものとされ、秩父家家督は実態的な権力として武蔵国留守所惣検校職を帯して、国内の党的武士団を動員しうる立場にあった。

*武蔵国留守所惣検校職・・・国司の留守を預かる留守所の長官。  (秩父氏)

十二世紀半ばごろ、この留守所惣検校職の地位をめぐり秩父重隆と甥の重能が争い、重隆が上野国多胡郡にいた源義賢を養子に迎えたのに対し、重能は鎌倉を拠点にしていた源義朝(頼朝・父)・義平父子と結んだ。 その源義平は源義賢の住む大蔵館(埼玉・嵐山町)を襲撃、義賢を討ち取り、重能の秩父家・家督としての地位が確立した。

*畠山重能は義平の外祖父である三浦義明の婿となり、そこに生まれたのが畠山重忠です。

畠山重忠邸・旧跡石塔(鎌倉・雪ノ下)・・鶴岡八幡宮東側入口付近
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平治の乱で源義朝(頼朝・父)が滅亡すると、留守所惣検校職は秩父重隆の孫にあたる河越重頼の掌握するところとなり、これに対抗するために畠山重能・小山田有重は平家に接近し、内裏大番役の番頭を勤めるなど、武蔵国の「棟梁」との地位を得ていました。

治承四年(1180)八月の頼朝挙兵時、畠山重能・小山田有重は大番役のために在京しており、その後も平家に従って北陸道を転戦し、東国に帰還したのは、寿永二年の平家都落ち後と云われる。

一方、畠山重忠は頼朝挙兵時在国しており、大庭景親の催促に応じて頼朝追討にあたり、三浦氏の軍と相模国・小坪で合戦しています。  その後、秩父家の家督である河越重頼の加勢を求めた。重頼は畠山重忠・江戸重長・中山重実らの秩父一族と共に衣笠城に籠る三浦一族を攻撃した。  この合戦で重忠の外祖父・三浦義明は討死する。  (続)

平成二十六年甲午・己巳・丁巳
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