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坂東武士の背景

平治の乱から二十年、武士はみな平家の統率下にあったが、それが雪崩を打ったように、大挙して反平家勢力に変貌していく、 治承四年(1180)九月の段階で、彼等はすべて去就の選択を迫られるようになる、状況は中立や傍観を許さない状況だ。

平家は全国の武士を治安や警察に出動させる権限を握っていた、武士は平家の指揮に従って、犯罪人の逮捕や皇居の警備(大番役)を勤めたが、 武士にとっては、それが平家独自の命令でなく、朝廷の命令であると云う認識であったと思われる。

と云うのも、平家は全国の武士と深いつながりをもつ機会を持たなかったようだ。  保元・平治の内乱は小規模であったし、平家自身も常に朝廷の臣として武士に接した。  頼朝が大規模な内乱の中で、朝廷から切り離された場で武士に接したのとは、大きな違いがある。
源頼朝像(鎌倉源氏山・化粧坂上)
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この時期に、上京していた武士は、史料による限りかなりの数にのぼる。彼等はまず平家のクーデター事件に動員され、京を制圧した軍勢に加わったであろう。 その後、数々の事件に参加している。  たとえば以仁事件(motihito)の場合、以仁に味方して宇治に戦死した者に足利義房があり、一方、以仁を討つ側に足利忠綱がいた。 両者は共に下野国足利荘にゆかりの武士とはいっても、義房は源姓の一族・忠綱は藤原姓の一族で、もともと別の氏族である。後に源姓足利氏は、義兼が頼朝に仕えて以来、幕府の中で重きをなし、尊氏に至る。

宇治合戦に「官軍」として動員された武士の中に、三浦義澄や千葉胤頼がいた。 彼等は「番役」のために上京している間に、動員されている。  おそらく他の在京中の武士達も同じ状況だったと思われる。

この二人は頼朝の挙兵に際し、はじめからその味方に立った。「吾妻鑑」には、二人が坂東に帰り、頼朝に面会して意志を通わせたと記録されている。それは、有りうることであり、三浦や千葉は平家から離反する意思を早くに固め、頼朝を擁護する事になったのであろう。 武士の一部にその様な動きがあって初めて、頼朝は挙兵の意志を固めたのであろう。

三浦や千葉が反平家行動に決起する事になった直接の原因は、彼等が以仁事件を身をもって体験したからに違いない。  以仁は、平家を朝廷と仏法に対する反逆者として糾弾した。彼等はこの以仁の行動に共感を覚えたであろう。しかし、彼等は平家の指揮に従う限り、以仁を討つ側に組み入れられたのである。

自分は反逆者に加担しているではないか?、と思う時その矛盾から抜け出ようとすれば、平家の指揮を直接受けない本貫地に戻ることであった。しかしながら、その坂東の地ににも平家の命令は届く。  頼朝の存在が緊張感を高める。

京にいては平家の命令を拒絶する事など不可能であるが、関東にいれば、いくらか可能であった。  三浦や千葉だけでなく、それが頼朝のもとに参集した武士に共通する心情であったろう。

直接に以仁事件に遭遇しなかったものでも、その心情は共有したはずである。体験者からの伝聞もあるし、彼等は様々な経路で京と連絡していた。 この時期には園城寺、延暦寺、興福寺等の衆徒の反平家活動が盛んであったが、そのなかに関東武士の一族も多かった。彼等は重要な情報源であろう。

坂東武士はつねに中央に強い関心を向け、京と往還し、事件を体験し朝廷と自分との関係を考えた。彼等は、頼朝などよりもはるかに多くの、中央に関する知識と情報を有していた。それをもとに、自らの行動を選択し、平家との関係を切らねばならない、という判断をしたのである。頼朝方となった武士の原点はここにあると思われる。

平成二十四年壬辰・癸卯・甲午
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