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鎌倉に幕府を置いた理由(わけ)

*親衛隊・三浦氏を頼って

鎌倉に本拠地を置いた事について多々考えてきたが、やはり一番に考慮したのは安全という点ではなかろうか。常識的に言えば、京都が政治の中心であるから(幕府)をそこに置くべきであろうが、頼朝はそうはしなかった、権謀術策に長けた貴族たちの待ち受ける京を避けたのでしょう。

東国の田舎に政治の中心を持ってくる決断は、当時としては革命でしょう。京都の貴族たちの策にはまらない為の賢明な選択だったのでしょう。そして、鎌倉は前面に海、隣に三浦一族が勢力を張る三浦半島をひかえる位置が、頼朝の安全を考えるとき、大切な条件となった。


鎌倉に入府後度々参詣に訪れた甘縄神明宮(鎌倉・長谷)
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挙兵前から頼朝の周囲には、流人仲間の神官や、京下りの遊び人と称される文筆家・僧侶などが集まっていたようだ。 彼等は頼朝の右筆(書記役)やブレーンとして活躍したが、挙兵が成功した後も、機会あるごとに朝廷に仕えていた官僚や知識人たちを、彼の幕僚に加えていった。

その中核となったのは、頼朝に定期便のごとく京の様子を伝えた三善康信(miyosi・yasunobu)、かねてから相模で養育されたので頼朝の「年来の知音」だった中原親能(nakahara・tikayosi)、その弟に当たる大江広元(ooe・hiromoto)など頼朝と個人的関係の深い、京下りの下級官僚たちであった。

*三善康信・・・頼朝の乳母の妹の子。京都在住。
*中原親能・・・幼少より相模・波多野氏に養育され、頼朝の親友。後、京で下級官僚。
*大江広元・・・中原親能の弟。 京・下級官僚。兄親能に呼び寄せられたと考えます。

頼朝は、かれら文筆に優れた人々を公事奉行人と呼ばれるグループとして従えつつ、東国の支配者としての統治を勧め、数々の文書を発行し、争論を決裁した。

京都・公卿の家政機関に倣った政・財務機関の公文所(kumonsiyo)や、訴訟機関の問注所(montiyusiyo)が独立し,大江広元が公文所の、三善康信が問注所の、それぞれ長官に就任した。

以上が幕府の中央機関とすれば、地方機関に当たるものは何か。挙兵の成功以来、頼朝は相模の三浦氏等、関東諸国の有力豪族の在庁官人たちに、各国を支配・統制する地位を保証した。同時にそれまでに追捕使(tuibusi)・検非違使(kebiisi)など国内の治安警察を任としてきたが、特に新たに三浦氏にたして国内の治安警察権が与えられた。


平成二十五年癸巳・壬戌・乙亥
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