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後北条氏・氏政

*太閤秀吉・小田原遠征

明智光秀を討ち、信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉との対立が残された。

天正十六年(1588)、北条氏政・氏直親子は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政は直ちにこれを拒否した。此の対応に対し北条討伐の機運が高まり、北条氏側も臨戦態勢を取るに至ったが、徳川家康の仲裁による「起請文」によって説得を受けました。

*家康が関白を説得し、北条氏の領地を望まない。
*兄弟衆の派遣を早々にする。
*京への出仕を拒否する場合は篤姫(氏直・正室)を離別する。

この「起請文」の説得で八月に氏政の弟・氏規が名代として上洛、北条・豊臣間の関係は一時的に安定した。この頃、氏政は実質的に隠居をすると宣言していた。

*主戦派・氏政・・・氏政は秀吉への全面従属には反対であるため、親徳川の氏直を立てたとされるが、後に氏政自身が上洛することを家臣・国衆に通知しており、氏政が主戦派であったとの解釈は疑わしい。

天正十一年(1589)評定衆の坂部雪斎が上洛、沼田問題の解決を秀吉に要請、秀吉は沼田領の三分の二を北条側に還付する沼田裁定を行った。それに伴い十二月氏政上洛の一札を受け取り、沼田領は北条方に引き渡された。

しかし上洛について、氏政は翌年の春から夏頃の上洛を申し入れたが、秀吉に拒絶され、再び関係が悪化し始めた。  こうした状況の中、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。

秀吉は徳川家康・上杉景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正十八年(1590)春に北条氏追討の出陣用意を促した。同時に秀吉は上使を北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して早急の上洛を要求している。 (続)

平成二十六年甲午・戊辰・辛巳
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