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後北条氏・氏政

*名胡桃城事件の波紋

この事件が真に猪俣の独断で有れば、氏直・氏政の監督不行き届きが招いた結果であり、穏健派の氏規と中間派の氏直、主戦派の氏政・氏照・氏邦の対立が表面化したのであろう。

しかし、現存している書状や史料から、沼田城受領後の氏政は自らの上洛時期が翌春にずれたものの、上洛には積極的であり、氏政・氏直が再三にわたり名胡桃城奪取を否定しており、この事件は何らかの誤解あるいは陰謀計画が存在したように思われます。

*小田原合戦への道

徳川家康の家臣、松平家忠は自らの日記に北条氏が真田の城一か所を攻め落としたと書き記している。名胡桃事件の事であろう。・・・・

事件の報が秀吉にもたらされ、秀吉から真田昌幸に宛てて朱印状が発せられた。この段階で「氏政の上洛があったとしても、名胡桃事件当事者の処罰がなければ北条を赦免しない」申し送っている。  軍事的な緊張は高まったが、即座の出陣はありませんでした。  氏政さえ上洛すれば、北条氏の滅亡は無かったかもしれません。

ところが、北条氏の不手際は続いた、・・・名胡桃事件の弁明の使者だけがこの時期に送られ、約束の氏政の上洛はありませんでした。この対応に秀吉は激怒し、使者を誅殺せよとまで命令してしまう。  (続)

平成二十六年甲午・戊辰・癸未
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