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後北条氏・氏政~氏直

*戦国大名・後北条氏の滅亡

未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした関白・秀吉は、氏政の出仕の拒否を豊臣家への従属拒否と見なし、諸大名に正式に氏政・氏直追討の陣触れを発した。

駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。 
 

天正十八年三月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓氷峠を越えてきた真田・依田軍に対して優勢に戦い勝利した。駿河・伊豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。四月から約三か月間にわたって籠城するが、その後、領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城。22万を超える豊臣軍の前に北条氏は降伏した。

この間の北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって重ねられた議論が「小田原評定」の語源といわれているが、本来は北条家家臣団が定期的に行っていた月例会を指すものと考えられる。

北条氏直が自分の命と引き換えにすべての将兵の助命を乞い、降伏した。氏直の舅である家康も氏政の助命を乞うが、北条氏の討伐を招いた責任者として秀吉は氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。  井伊直政の情報では助命されるとの見通しもあったようだが、叶わなかった。  (終り)

*毎回のご来場ありがとうございます。 、今回まで、後北条氏の成立から滅亡までをリポートしてきましたが、一区切りです。 少し休んで再開します・・・またよろしくお願いします。

平成二十六年甲午・三月・十五日



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