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中世都市・鎌倉

*北条家・嫡流の継承

前回までのように、三段階の御所の変遷を踏まえ、それぞれの時期における北条氏の邸宅と御所との位置関係について考えてみたい。  鎌倉時代における北条氏の嫡流は得宗と呼ばれ、時政から始まり、義時、泰時、経時、(時氏は早世)、時頼、時宗、貞時、高時と続く。
宇津宮辻子幕府跡石塔s-2010_1011_095749-DSC01027.jpg
時政は当初、伊豆国韮山に館を構えていたが、鎌倉では「名越亭」を持っていた。  この邸宅の位置は特定することができないが、現在では名越に通ずる釈迦堂切通し周辺ではないかと推定されています。時政は大倉御所とは一定の距離を置いていたことが覗えます。

時政の子、北条義時は、大倉と小町の二か所に邸宅を持っていた。 大倉亭は、大倉観音堂(現・杉本寺)の西、二階堂大路の東側の周辺と思われる。  小町亭は、小町大路の東側、現在の宝戒寺の辺りと考えられる。「宝戒寺・小町亭」と呼ばれる。

大倉亭は大倉御所に出仕するための邸宅であり、御所を挟んで反対側には小町亭が配置されていたのである。  義時の死後、大倉亭は義時後家から北条時房(義時弟)の手を経て消滅したが、小町亭は時房から時頼・長時・政村・へと継承され、最終的には時宗・貞時・高時と、北条氏嫡流の住む邸宅「得宗亭」となっていたと考えられる。

義時の子、北条泰時は、小町に邸宅を持っていた、六波羅探題として京都にいた泰時は、父義時の訃報を受けて鎌倉に戻り、小町の邸宅に入っています、その邸宅はおそらく、若宮大路の東側「宝戒寺・小町亭」との間に有ったと思われます。 泰時と共に六波羅探題となっていた時房は、鎌倉に戻ると義時の大倉亭に入ったと推定されます。

そこには元服前の次期将軍藤原頼経が住んでおり、時房の役目はおそらくこの将軍を確保することにあったのでしょう。嘉禄元年(1225)に御所が大倉から宇津宮辻子へ移転すると、それと共に時房も、御所に近い「宝戒寺・小町亭」に移住したと考えられる。  時房が次期将軍頼経と共に大倉から小町へと移住したことは、彼の役割が将軍の確保にあったことをよく表しています。・・・次期執権泰時の地位は、一族の長老である時房のこうした行動によって支えられたのであろう。   (続)

平成二十六年甲午・己巳・戊申
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