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中世都市・鎌倉

*畠山重忠と三浦一族・・続き

頼朝が房総半島を制圧した後、畠山重忠・江戸重長・河越重頼ら武網流の秩父平氏は、頼朝側の妥協のもとに参向。・・・頼朝は、彼らに族長・義明を討たれた三浦一族に対して大義の為の説得を行ったと考えています。 (吾妻鑑・治承四年十月条)

鎌倉幕府・大倉御所・西御門跡・・畠山重忠邸付近
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頼朝挙兵の直後、秩父平氏のうちで畠山氏ら武網流がこぞって平家方に立ったのに対して、武常流の豊島・葛西氏は頼朝側に積極的に加担した。  房総で兵力を整えた頼朝は武蔵国に入り、河越重頼の権限を剥奪し、代わって江戸重長に在庁官人並びに諸郡司等を武蔵国諸雑事の沙汰を実行する権限を与え、畠山重忠を軍の先陣に起用した。

しかし、一旦は制圧した河越重頼の妻が頼朝の乳母比企尼の娘であること事から、重頼は留守所惣検校職の地位を回復し、その娘は頼朝の周旋で義経の正室に迎えられる。 ところが、平家滅亡後、頼朝と義経が対立するに及んで、河越重頼とその子の重房は粛清・殺害されてしまった。  その結果、武蔵国留守所惣検校職には畠山重忠が任命された。

さて、これまでに重忠が武蔵国留守所惣検校職を手中にするまでをの周囲の状況をリポートしてきたが、ここから、秩父一族には大きく武網流と武常流に去就に相違がみられ、武網流には家督権=留守所惣検校職を巡って常に同族抗争が起き、これに敗れた一族は、家督に対する主体性を確保するために中央の有力者との結合をはかったと考えられる。

剛勇の関東武士・畠山重忠を味方につけた源頼朝の調停者としての面目躍如たるものが覗えるが、彼の在世中は履行されても、東国武士の心性に照らして、重忠等に対する遺恨の清算は不可能であり、封印された三浦一族の怨念は、三浦義明の神格化に伴って、再び燃え上がる結果になる。  (続)

平成二十六年甲午・己巳・庚申
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