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中世都市・鎌倉

*畠山重忠と三浦一族・・・続き

畠山重忠は長寛二年(1164)、畠山重能と三浦義明の娘との間に生まれている。大蔵合戦の経緯を見ても、畠山氏と三浦氏の協力関係は平治の乱以前にさかのぼる事は確実で、・・あるいは源氏を媒介する形で両者は族縁関係を結んだのかもしれません。  いずれにしても、重忠は三浦義明の外孫であり、姻族と軍事行動を共にすることの多かった当時の坂東武士社会のモラルに照らして、頼朝挙兵直後に於ける彼らの行動は三浦氏の一族にとって深い憤りと恨みを残すものとなったことは間違いないでしょう。
畠山重保(重忠・嫡男)を祀る宝篋印塔(由比ヶ浜・一の鳥居付近)
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*畠山重保・・・・・武蔵国有力御家人・畠山重忠嫡男。  北条時政の命を受けた三浦義村に討たれた。ついで重忠も二俣川の戦いで幕府軍に敗れ敗死する。   詳しくは後述します。

一方、三浦氏よりも血縁的に遠い関係にあったにもかかわらず、常に重忠を支持したのは伯母の婚家である下総の千葉氏であった。  重忠は彼の所領である伊勢国沼田御厨における地頭代の押妨を伊勢神宮の神官らに訴えられ、その罪によって所領四個所を没収されて、さらに、囚人として千葉胤正に預けられた。  この時胤正は心を尽くして重忠をいたわっています。  (吾妻鑑)

*千葉胤正・・・千葉常胤の子、・・頼朝に重忠の赦免を働きかけています。

元久二年(1205)、の畠山重忠追討戦(二俣川の戦い)に千葉一族が先鋒を命じられたにもかかわらず、重忠追討の参陣を拒否した可能性が指摘されています。

この、二俣川の戦いの背景に、北条時政の先妻の子のグループと後妻・牧の方のグループの対立や北条氏の武蔵国掌握の意図が見えてきます。  しかし、この事件の背景にはまだ他に原因があるようです、それは長く蓄積されてきた三浦一族の怨念の存在。 秩父家における一族間抗争の再燃が見えてきます。

北条時政は娘を畠山重忠に嫁がせたにもかかわらず、畠山一族に対し陰謀を巡らせ始めた。  まずは嫡男・重保は「謀反が起きた」との偽情報を流し、時政の指示で動いた三浦氏によって謀殺された。  重保を討った北条氏は、武蔵の領地に居た重保の父重忠を「鎌倉に異変あり」とまたもや偽情報を流し呼び出し、途中、横浜市旭区二俣川あたりで待ち受ける北条義時と交戦し、北条氏の謀略に敗れてしまった。

三浦氏は義明の存在によって一族をあげて頼朝に参向し、その結果、鎌倉政権に於いて高い地位を占め、諸国に多くの所領・所職を得て大勢力となっています。  しかし、衣笠城で討死を遂げた義明の後を受けて三浦氏の家督を継いだのは義澄であるが、一族が独立した御家人として活躍を始めると、その統率力は弱まり始めた。この状況は、三浦氏嫡宗家のみならず、幕府にとっても看過しがたい事であり、頼朝は三浦介の一族に対して、特に嫡宗家・義澄の支配に従うようにと命じています。   (吾妻鑑)

三浦氏が、一族の武門としてのアイデンティティーを支えたのは、彼らの共通の祖で頼朝挙兵に身を捧げた義明の存在であった。したがって、幕府の確立期、義明は三浦一族にとって氏神に擬せられるような存在として三浦一族の中で神格化されたようだ。  この時期の三浦氏には、その義明を討ったものに対する、頼朝の命で封じ込められていた怨念をそのままにできないような空気が醸成されつつあったのでしょう。

*三浦義明を死に追い込んだのは秩父平氏の軍勢であって、直接重忠が手を下した訳ではない。  しかし、義明が神格化されつつある時代に、重忠は武蔵国留守所惣検校職と云う重要な地位にあり秩父家家督としての存在感も保持していた。  かくして重忠は三浦一族にとって、外孫の立場にありながら英雄的な先祖義明を討った仇、怨恨のターゲットとされたのである。

この様な重忠への復讐を果たすことは、侍所別当の住職にある和田義盛に三浦一族の族長権を脅かされていた。本来の嫡宗たる三浦義村にとって緊急な課題となっていた。

畠山氏討伐の一連の動きの中で、三浦義村が登場する背景は、このような状況からであったと考えます。   (終)

平成二十六年甲午・己巳・癸亥
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