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源家伝領の地

*源家発祥の地としての亀ヶ谷

壽福寺とその背後にある源氏山とを含む広範な地域で、現在「亀ヶ谷」と云われているところは、記録に残されていることを参考にする限り、「源家伝領の地」といえる。  源家ははじめてこの地に本拠地を領有し、子孫に伝えたのである。  鎌倉八幡宮の裏側から西方に当たる一帯を示す。  その中心は何といっても寿福寺である。

頼朝夫人・北条政子建立の壽福寺・・・(鎌倉・扇ヶ谷)
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この寺が創建されるに至る経緯をたどれば、源頼朝が幕府を開設するときの裏側の実情を探ることができる。 今はそれを記念するため、源氏山の頂上に頼朝の像が建てられています。

この地域は早くから軍事上・政治上非常に高い評価を受けていたことに注目したい、源家が領有したことは、幸運だったと思われます。  古い資料等から平上総介直方、鎌倉を屋敷とす。  ここに鎮守府将軍・源頼義が相模守として下向した時、直方の婿となり、八幡太郎義家を出生し、鎌倉の地を譲り受けて以降、源家相伝の地として、治承五年(1181)に鶴岡に八幡宮を崇め奉ったという。・・・記事がみられる。

しかし、相模国は本来平氏系の三浦氏や大庭氏の一族によって支配されていたので、義朝(頼朝・父)の時代などにはトラブルが頻発した。  大庭氏と同族を成す鎌倉党の人々と義朝との間に起こった大庭御厨(ooba・mikuriya)に絡む紛争など、代表的な事件と言えます。

*大庭御厨・・・・・伊勢神宮に神饌を貢進する所領の事。  大庭氏が管理権を掌握していた。

源氏の本拠地と隣接していたために、義朝の時代には両者の間でたびたび摩擦が生じていた。  これらのさまざまなトラブルを経た後、頼朝の時代には、幕府を中心とする勢力がほぼ安定し、抵抗を繰り返した有力な土豪も大方服属して、一応平穏に帰した。


大庭氏もそのような経過をたどった代表的な一族である。  大庭氏と同族で鎌倉党出身の梶原景時など、頼朝の御家人となって、ひたすら忠勤を励んだ顕著な事例もある。 このような、複雑な曲折を踏んだ源家伝領の地に、幕府創設のため頼朝が初めて入府しょうとしたときには、必然的に義朝の居館跡が存在し、そこに幕府を開く予定であった・・・・。

「源家伝領の地」は同時に頼朝にとって父母の魂が眠る土地であり、真実の意味で故郷であった。そのような土地を持つことによって、頼朝は始めて生涯の限りない安らぎを得たからである。生まれた場所は京都であると思われますが、頼朝にとって京都は故郷に値しないと考えていたと思われます。

挙兵後、初めて鎌倉に入府しようとしたとき、まず当時由比ヶ浜にあった鶴岡八幡宮を遥拝し、その後父義朝の旧居を訪ね、頼朝にとってこの旧居が重要な意味を有する点に注目して、そこを鎌倉での根拠地と定め、自邸を建設しようと思ったのである。ところがよく見ればそこは山間の狭隘地で、発展の余地が乏しいという事が判明。さらに家人の岡崎義実が義朝の霊を慰めるために旧居跡に寺院の創建を計画していたことを知り、その地に治政の本拠地を置くことを断念したと云う。

岡崎義実・・・・・三浦義明の弟。石橋山の合戦以来頼朝に従い、敗戦の為安房国に渡行し、その地で頼朝の軍に合流し鎌倉に入府。

(続)

平成二十六年甲午・庚午・壬申
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