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源義経・腰越状の真実

*「吾妻鑑」から見た腰越状

寿永三年(1184)は、平家が全滅した重要な年だが、吾妻鑑の記録から、義経の身の上の変化を検証してみると、大変に大きな変化が起きていることが理解できます。
鎌倉・腰越の万福寺に残される「腰越状」の写し
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吾妻鑑の記録から・・・。

寿永三年(1184)2/15条  源・範頼・義経の飛脚が一の谷合戦の記録を鎌倉に献上した。

元暦元年(1184)6/21条  義経がしきりに官職への推挙を臨んだが、頼朝はこれを許さなかった。

同年         7/03条  頼朝は宗盛以下の平氏を追悼するため、義経を西海に派遣するよう天皇(後白河)に申請した。


同年         8/06条  頼朝は範頼他、有力御家人多数を集めて、西海へ進発させるための壮行会を行ったが、その中に義経の名は無かった。

同年         8/08条  頼朝は範頼を総大将に一千余騎を進発させて、西海に赴かせた、稲瀬河に桟敷を設けて一行を見送った。その中に義経の名は見えない。

同年         8/17条  義経の使者が鎌倉に参着した。 左衛門尉に任ぜられた事を報告した。対して頼朝は激怒し、西国追討使の役職を保留にした。

*義経の弁解・・・・・自分から望んだのではない・・・たびたびの勲功に対しての朝廷からの任官要請を固辞出来ませんでした。

頼朝は七月の時点では西海追討使の責任者を義経と定めて、朝廷に上申しておきながら、翌八月にはそのメンバーから完全に義経を消してしまっている。 僅か一、二か月の間に一体何が起こったのか。よほどの事態が発生したに違いないが、その真相を知ることはほとんど不可能に近い。実兄から受ける処遇があっという間に豹変したとなると、義経のショックがいか程のものか、想像に余りある。・・・

その間に、義経は数々の不本意な経過にもかかわらず、頼朝の代官として引き続き源平の合戦には顕著な功績を揚げ、平宗盛等を捕えて、鎌倉に凱旋しようとしたが、腰越まで来たところで鎌倉への入府を許されなかった。

*腰越・・・七里ヶ浜の西端にあり、江の島を臨む要衝であるが、東海道を経て鎌倉に入るにはここが玄関口となる。

義経はやむなく腰越でわが身の忠誠を訴え、衷情を吐露する長文の書状を時の公文所別当・大江広元宛てに提出した。いわゆる「腰越状」といわれる書状である。 (続)

平成二十六年甲午・庚午・戊寅
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