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幕府内で起きた騒乱事件

*源実朝殺害の陰謀

実朝は政子の果敢な措置によって、危機一髪の急場を脱することができたが、この事件はもうひとつの争乱畠山重忠・重保父子殺害事件にも関係する事が解ってきた。
吾妻鑑・読み下し教本 巻の十五
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事の成り行きは、まず平賀朝雅(牧の方・娘婿)が自ら将軍になろうとして、実朝の殺害を計画した。その間の事情を畠山重忠・重保父子が実際にどの程度知っていたかは疑問が残るが、時政に讒訴したと云うのである。  実朝の殺害計画が公になると平賀朝雅は窮地に追い込まれ、牧の方にすがったと考えられる。

*牧の方の緊急提案

平賀朝雅の陰謀は牧の方の謀略であった可能性もあります、いずれにしても義理の息子と謀り将軍の地位を狙ったことはまちがいないようです。その計画が公になってしまい、時政に讒訴した畠山・父子の誅殺を夫の時政に提案したのです。

時政は牧の方の提案を聞いて、そのままを義時や時房に告げた。しかし、畠山父子は忠節を尽くす人物で、軽はずみに誅殺を加えるわけにはゆかないと反対した。・・・義時も時房も政子同様先妻の子でだから、後妻牧の方に対して批判的であったと思われる。

畠山重忠・重保父子にかかわる経緯については、この事件のほかにも色々な問題がありますが、今回は実朝の暗殺未遂事件に焦点を合わせます。


阿波の局の進言により、実朝を時政邸から政子の許に迎えたとき、一時は牧の方に不審な動静が見られるという程度であったが、今度は明確に殺害を企て、それを実行に移すため、武士を動員させたのである。政子も義時も先妻の子であり、共に力を合わせて、牧の方の奸謀に対し激しい措置を取った。  時政及び牧の方は実朝の殺害に多数の兵士を動員し、まさに一触即発の危機をはらんでいた。ところが時政邸に招集された兵士たちは意外にも義時邸に集まりだし、事前に勝敗は決定してしまった。

この事件により、時政と牧の方は完全に失脚し、幕府(鎌倉)から姿を消すことになる。  北条時政は伊豆北条郡に隠遁。相州(北条義時)が執権職を引き継いだ。  大江広元・三善善信・安達景盛等、相州の屋敷に参集し、騒動の結末を処理した。   (終)

平成二十六年甲午・庚午・丁亥
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