FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

源家の嫡流・源一幡(minamoto・itiman)

*嫡流・源一幡の墓碑

今回は源家の嫡流につてリポートします。  源一幡は頼家の嫡男であり、源家としては非常に重要な人物であるが、誠に不幸な生涯で有ったようです。  満六歳、まだ何もわからない年齢で、不慮惨死するような憂き目に遭遇した。将来は必ず将軍となるべき地位に置かれていたのに、この若さでは、その意識さえまだなかったと思われます。
日蓮宗・妙本寺・・・源一幡袖塚。(鎌倉・大町) 左手前小石塔
s-2011_0406_113721-DSC01549.jpg
 

母は若狭局。・・その父、比企能員(hiki・yosikazu)が、その勢力拡大を恐れた北条氏の陰謀にかかり、現在の妙本寺の場所にあった居館を急襲されて、建仁三年(1203)、比企氏一族がほとんど全滅したときに、その戦渦に巻き込まれて、あわれにも焼死体で発見されたのである。

まことに気の毒な最期であったと伝わる。  大輔房源性(daiyuubou・gensei)という人が、その遺骨を首にかけ高野山に山詣し、奥の院に納めたという。源性(gensei)は頼家の許で蹴鞠の会が行われればいつも参加していたし、比企氏の屋敷にも頻繁に現れていた。  蹴鞠ばかりでなく、その他についても特殊は能力を備えていて、頼家に大切に扱われていたらしい。

*大輔房源性・・・・・源頼家・家の近習衆。 「無双の算術者」と記される。(吾妻鑑)

源性は、かねてから弘法大師を崇拝し、高野山を迎墓いていたと伝わる。その関係で一幡の遺骸をその奥の院に納骨したのだろう。 こんな特別な篤志家が存在したからこそ、一幡は空しく髑髏を山野に曝すことから救われたわけである。高野山の奥の院に納骨されれば、没後の供養としてはそれに勝る処遇はない。

建仁三年(1203)正月/2条「吾妻鑑」の記録。将軍の若君、鶴岡八幡宮に奉幣。新馬二疋を奉納した折に、巫女を通じての託宣は、一幡君は家督を継いではならないという託宣であった。  嫡子の一幡がもし継がなければ、いったい誰が継ぐのであろう。同年八月の記録では、家督を実朝と一幡とで二分することが定められたと記録されているが、託宣では、その相続権を放棄すべきであると指図しています。 比企能員は一幡の舅の立場として相続権の分割さえ不当としている立場だ、相続権を放棄するなど到底許せないと考えた。むしろ相続権の全部を取得すべきであるという見解を誇示していた。

「吾妻鑑」の編者が北条氏に有利なように記録を進めていることは、従来から指摘されるところですが、この様な点にもその片鱗を見つけることができます。  妙本寺境内に残存する一幡の墓碑はすべてを見続けている。  (終)

平成二十六年甲午・庚午・庚寅
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。