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鎌倉・覚園寺の草創は薬師堂

*鎌倉・覚園寺(薬師堂)異聞

名刹・覚園寺の草創についてのリポート。  同時に源実朝暗殺事件にかかわる重大な問題を含む寺院である事も・・・。この寺院は真言宗・泉涌寺派で、永仁四年(1296)に北条貞時の本願により創建されています。 その基礎となったのは北条義時が建てた薬師堂である。この薬師堂については多くの謎が含まれるが、看過することができない重要な事件が絡んでいます。
現在の覚園寺・本堂(鎌倉・二階堂)   薬師堂は境内撮影不可の為なし
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貞時の創建をさかのぼる事八十年、「吾妻鑑」建保六年(1218)、執権北条義時は、一堂を建立し薬師像を安置するよう命じた。  それが覚園寺の草創と云われています。その発端は義時自身が見た夢の託宣によるもの。  薬師十二神将のうち、戌神(inugami)が義時の枕上で「今年の八幡宮参詣は無事に済んだが、明年の参詣には供奉してはならない」との託宣であった。

託宣の意味が理解できなかった義時であるが、薬師十二神将の誓願は壮年の頃から続けていたので信仰するに至り、薬師像を安置するために一堂を建立する事を定めた。近親の北条時房・泰時等は経費の節約のために反対したが、薬師神の託宣を強硬決意し、工事開始の命令を発しました。

翌年の八幡宮参詣というのは、源実朝暗殺事件の発生する右大臣任官拝賀の式典を指す。後になって解る事だが、先の託宣に重大な意味が含まれていたのだ。  問題のその式典は建保七年(1219)正月/27日、神拝の儀式が終了し、将軍下向の折、石段の際に於いて、突然公暁が実朝に斬りつけた。・・・だが、その刃傷事件発生の直前実朝に供していた義時が「心神遺乱」と称して中原仲章と変わっていたのである。 公暁は実朝と同時にあらかじめ義時を狙っていたので、誤って中原仲章を殺害してしまった。  中原仲章は誠に不慮の災難であるが、疑わしいのは義時である。

義時はこのような事態が発生するのを予期していたかのように「心神遺乱」と称して実朝の供を刃傷事件の直前に中原仲章と交代していたのです。誠に都合よく交代しています、この時の事件現場について、「吾妻鑑」は次のように説明している。

義時が日頃厚く信仰していた薬師神将の戌神は、義時を守護するために、式典の中、終始薬師堂を留守にして、その近辺に寄り添っていたというのである。 義時が「心神遺乱」と称して儀式の列から離れたのは、戌神の託宣に従ったものであると説明しています。 しかし、この様な説明ではとうてい納得できないでしょう。 義時に 実朝暗殺の黒幕説が残るのは当然でしょう。「吾妻鑑」は北条氏の立場を有利になる様に記述している点が多いと云う通説はその妥当性を強くする。

覚園寺は云うまでもなく、北条氏繁栄の基礎としてもきわめて注目されています。  北条氏から輩出された歴代の執権職は、のちに元寇の難関をも乗り越えて、世のため国の為敢えて苦難の道を勇進しました。  覚園寺はその様な人々にとって重要な精神的拠点となったに違いない。

*鎌倉末期に一度衰退するが、室町期に足利尊氏によって中興され繁栄した。   (終)

平成二十六年甲午・庚午・癸巳
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