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大幹線路・朝夷奈切り通し

*幹線道路と金沢港

鎌倉八幡宮から杉本観音前を通り、十二所(jixuunisou)に至る道は金沢街道と呼ばれ、重要な幹線道路であった。 金沢街道の東の端は現在の横浜市金沢区に相当する。  金沢町は称名寺や金沢文庫があるところで、歴史的風土の点では重要な地域であり、東京湾岸で、観光地としても注目される。  現在でも金沢街道と呼び、景観は変わっているが、幹線道路としての性格は変わらない。
旧金沢街道・朝夷奈道(鎌倉側・荷馬車のわだちが確認できます)
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鎌倉時代初頭のおいては、金沢港は六つ浦と呼ばれ、江戸湾内舟航の為の中心港であった。軍事的にも注目すべき要衝とされた。 安房・上総・下総・常陸の諸国全般ににらみを利かせるためには、絶対に抑えておかなければならない重要な拠点であった。

鎌倉幕府がそれらの国々の動静に絶えず神経をとがらせていたことは言うまでもない事で、六浦の管理権をどうしても掌握しておく必要があった。  繁栄を極めた幕府でも、もし万一政情不安定で武運急を告げ、鎌倉の地を放棄するような事態が発生した場合、六浦から出港して房総方面に遁走するのが最上の手段となるからだ。

古来三浦半島を支配していた三浦氏が、本拠とする衣笠城を放棄するような状況になりました。  治承四年(1180)頼朝の旗揚げ以後、頼朝に合流できず反頼朝勢力に衣笠城を攻められ、城主三浦義明が籠城戦を戦っている間に、次男義澄が全軍を統率、安房に渡ったのです。このとき、どのようなコースで安房に渡ったかは確定できないが、あるいは金沢港を使った可能性も一応考えられます。

*三浦大介義明・・・・・三浦一族当主。 源家累代の家人として、幸いに貴種としての源家再興の時に遭遇したのである。今、老命を武衛(源頼朝)の為になげうって、わが子孫の勲功に委ねよう。・・・・・という有名な言葉が残る。

ここで注目すべきは、三浦氏には安房国や上総国があったから、本拠の衣笠城を放棄しても、生きる手段があり得たと云うことである。千葉氏と三浦氏とは姻戚関係にあったということです。 あらかじめ房総方面へのパイプをしっかり構築していたのだ。

あとになって鎌倉に本拠を構えることに至った幕府についても、衣笠城にあった三浦氏とまったく同じ事が言える。 常に房総の領主たちとの間に親密な関係がない限り、平穏無事では済まされなかったに違いありません。  そのためには鎌倉から江戸湾に抜ける幹線道路の貫通は必須であったと思われる。

後年そのために執権職自らが陣頭指揮に立ち切通しの開設に専念することになる、それはまさに鎌倉と房総とを直結する大幹線路となるからだ。・・・・・ (休)

*朝夷奈切り通しに付いてはまだリポートを続ける予定ですが、ここで一旦終了します。

平成二十六年甲午・庚午・己亥
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